岡本太郎を永遠に
岡本 敏子さん
〜『いのちの田圃』2001年6月号(第6号より)〜
さまざまな分野で一筋の道を貫く人たち。崇高にして爽快なその人生の軌跡を、川竹が心からの尊敬を込めてレポートする。
第六回は、岡本太郎記念館館長の岡本敏子さん。およそ半世紀、太郎に寄り添い、共に闘い、今は、そのたぐいまれな作品世界を世に広めることに情熱を注いでいる。
「太郎さんがいなくなれば、殉死するつもり」
地下鉄を降り、真昼の地上に出たとたん、岡本敏子さんの、こんな言葉が脳裏に弾けた。
旧姓平野。秘書として、養女として、およそ五十年、岡本太郎の一部始終に寄り添ってきた人である。
『抱きしめて、胸の谷間に、あるいは子宮のなかに押し込んで温めてやりたくなるような・・・』
太郎への濃密な思いを綴った文章が、取材への意欲を駆り立ててくる。
最後の角を左に曲がる。ブロック塀から緑の密集があふれている。岡本太郎記念館。ここだ!
画家、彫刻家、作家、思想家。自ら語っていたその言葉どおり、戦後日本の象徴的人間像であり続けた太郎と敏子さんの宇宙である。
太郎巫女
「殉死するんじゃないかって、みんな心配して見にきてくれるんですが、太郎さんが頭のすぐ上から、ピカピカチャカチャカ、あれをやれ、これをやれって指令を発するものですから、生きてらっしゃる時より、ずっと忙しいのよ」
挨拶を終えて三十秒もたたないのに、太郎の話となると、とたんに満面笑み。唄うように語り、目には恍惚の色さえ宿る。十九年前初めてお会いした時から、いつも、必ず、である。
太郎没後、五年半。
敏子さんは今、彼の仕事を世に広め、永遠の歴史にとどめようと、命のありったけを注いでいる。
例えば、川崎市の岡本太郎美術館建設に奔走し、それに先駆け、半世紀を共に過ごした岡本邸を記念館として公開。
太郎への愛惜を連らねた三冊の著作を発表しつつ、年間二十冊あまりも刊行される関連本の多くに、太郎への思いの限りを綴り、講演会やテレビでもひたすら太郎の引力を語り続けている。
「今の私はね、太郎さんの巫女なんです。彼のこと、みんなに知ってもらいたいの。だって、本当にあんなに素晴らしい人、世界中どんなに探してもいない。
あんな人が、この日本にいたってこと自体が大きな事件だし、奇跡なのよ」
手放しの太郎讃歌が、陽気なさざ波のように放射されてくる。
二人の戦場
昭和二十四年頃のこと。大学を出たばかりの敏子さんは、ごく自然に岡本太郎の仕事を手伝い始め・・・原稿清書、資料収集、スケジュール調整、そしてあっという間に、あらゆる取材に同行するまでになっていった。
「あの方せっかちでしょ。もう、頭の中で色んな考えが押し合いへしあいしていて、メモしてるんだけど、地団駄踏んで、ネズミ花火が跳ねてるような字なの。フランス語もいっぱい入っているし、読めないんですよ。いちいち、聞くくらいなら、初めから私が書いた方がずっと早いんですよ」
日本全国を駆け巡っての取材、ちょっとした打ち合せ、酒席の議論、太郎の口から飛び出すどんな断片ももらさず記録した。
「テープ、テープ」
太郎がこう叫ぶ。だがそれは、録音ではなく、敏子さんにメモの催促をしているのである。
「次から次、ポンポンと、いいことおっしゃるんだけど、みんな忘れちゃうんです、あの方」
だが、テープでは、書き起こすだけで膨大な時間がかかってしまう。
次第に、メモを取りながら原稿の骨組みを練るまでになり、太郎の著作は、すべて敏子さんの口述筆記になった。
「わたくしが書きながら質問するでしょ、そうすると、あの方の考えが、また飛躍するの。あんなにスリリングで、ゾクゾクワクワクすることはなかった」
若者たちのバイブルともなったベストセラー『今日の芸術』、伝統と対峙する決意を説いた『日本の伝統』、戦後最高のルポルタージュと絶賛された『日本再発見』、そして世界の魂と斬り結んだ『美の呪力』。数々の著作が、このようにして生み出されていったのである。
そしてもちろん、アトリエでの絵画制作でも、すべての瞬間を太郎と共有してきた。
「私はね、『わあー凄い!』とか、『いいわねえ、いいなあ』とか、涙流して喜んでるだけ。
ところがね、時々、なんか違うなーって思うことがあって、と、あの方、敏感だから、そういう時に限ってまた『どうだ』って聞くんです。『どうなんだよ。思ってることがあるんだろ、言えよ』って。
それで困ってね、言えるようになったら言いますって、部屋を出ていこうとすると、『なんだ』って、おもしろくなさそうな顔して、描くのやめちゃうの。だから、あの人、ずっと見てなくちゃだめなんですよ。彫刻するんでも、絵を描くんでも、ずーっと」
やんちゃ坊主を見るように、目を細める。
だがそれでいて、敏子さんが自分に向ける眼差しはどこまでも冷静である。
「創造するってことは、孤独な営みでしょ。だから私は、あの方の創造に一センチも一ミリも役立ったなんて思わない。そんな傲慢不遜なこと、とんでもない」
太郎がいる。どんな瞬間にも敏子さんがいる。
太郎はいつも反射的に動くが、同時に敏子さんも動くものと信じている。だから、敏子さんは化粧を一切しない。髪も短く切りっぱなし。そんなことにかまっている時間など、とてもとても。
一年三百六十五日、来る日も来る日も、完全な二十四時間態勢。そんな五十年だった。
「よくね、疲れなかったかって聞かれるんですけど、全然。だって本当に素敵なのよ。常に挑戦してるんだし、常に新しいことやってるんだし、あんな男の子はいませんよ。可愛いし、純粋だし」
奇跡の二人
気がつけば、私の口は、こんな音声を発していた。
「しかし、本当によく、ここまでヌケヌケと礼賛出来るものですね」
しまった、と思った。しかし敏子さんは、この日最大の笑顔で、またしてもあのさざ波を送ってくる。
「ほんとうにね。その通りね。しかもね、岡本太郎というと・・・」
挑戦 とか、 芸術は爆発だ と叫ぶ、やたらと元気で風変わりな人物だと思われがちである。
マスコミがそんな虚像を作り上げ、太郎は太郎で、そんなことは意にも介さずに楽しんでいた。
しかし・・・と、太郎の母・岡本かの子のファンでもある敏子さんは言う。
「かの子はね、いろんな嘆きや恨みを猛り狂いながら子供の太郎さんに注ぎ込んだんですよね。
それを一生懸命になって聞いてね、母親を支えてやろうとしてたのね。だから、それがなんかの拍子にね、すごい孤独や孤愁になって表れるのね。
どんなにみんなにチヤホヤされていても、どんなに大きな仕事して、その真ん中にいる時でも、すごく孤独なのね。それは、本当にかわいそう。抱いて、温めてあげるしか出来ないものなの」
『子宮のなかに押し込んで温めて・・・』
その言葉の熱を心に確かめつつ、私は意を決して愚問を発した。どうして、結婚しなかったのかと。
「川竹さんまでそんなこと聞くの? でもね、一度もそんなこと考えたこともない。結婚したいとか、出来るかとか、ともかくまったく。結婚なんてすると縛られるし、あの方も全然」
考えてはいなかったという。養女になったことも、何故、いつ、そうなったのかも分からない。
「あの方も、養女にしたよとも、するよとも、何とも言わなかったし、どうでもいいと思ってる」
恋人でなく、夫婦でなく、互いを縛らず依存せず。内助の功や献身などという湿った言葉も二人の間にはまったくない。ましてや苦労など、微塵も。
それでいて、いや、それだからこその、互いへの完全な尊重といたわり。
「本当に、奇跡のような関係ですね」
十九年前、二ヵ月近くもお二人を取材して以来、心に膨らむ一方だった言葉を、私は、初めて口にした。
共同制作
一九九五年十二月三十一日。敏子さんは、日記に次のように記す。
パーキンソン病にかかっていた太郎が、いよいよ動けなくなってきたのだ。
〈寝室から二階の食堂につれて来て、エプロンをかけさせようとして、思わず抱きしめてこうささやいた。
「先生。先生と一緒に闘ったわねえ。闘ってるのよ、いまも。分かる? 私の出来る限り、闘ってるのよ。見ててね。見てて、助けてね」〉
そして、明くる一月七日。岡本太郎は、八十四年の命を閉じた。
それは、あらゆる権威と常識に挑み続け、前衛を貫き通した生涯だった。
「ある人がね、本当に愛していたら、危険なことをやめさせるのが普通だって言うのね。そんな、とんでもない! 闘うのが岡本太郎なんであってね、たとえ血だらけになっても、もっともっと挑んでいくのが岡本太郎よ。やめさせるなんてもったいないでしょ。
本当にね、あんな凄い人の側にずっといて、私が一番ぜいたくしてる。
今もね、太郎さんの指令が飛んでるの、あれやれこれやれって。私は、岡本太郎さんが私にやらせたいことが終わっちゃえば、そこでスパッと亡くなると思ってますからね、全然思いわずらいがないのね」
午後の、金色の斜光のなかに、またしても敏子さんの笑いが散乱する。
その暖かな響きの中で、私の心に、一つの思いが芽生えていた。
敏子さんは、太郎の作品の創造には、一センチ、一ミリも貢献していないと言う。けれど・・・、
人間岡本太郎という巨大な作品は・・・まぎれもなく、敏子さんと太郎の、共同制作ではなかったかと。
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