2013年05月11日

学会誌第2号より その1


以下は、2009年6月に開催された第2回『日本ウェラー・ザン・ウェル学会シンポジウム・自然退縮』学会誌第2号からの再録です。

はじめに

 ガン患者の現状を思うとき、私の脳裏に、しきりに浮かぶ一つの言葉がある。
 それは、〈自己家畜化〉。ドイツの人類学者たちが用い始めた言葉だ。
 野や山の植物を栽培し、野生動物を家畜にする。あるいは、山を切り崩し、川を堰き止め、海を埋め立て・・・自然環境そのものにさえ大規模な改変を加える。
 このように、人類は〈自然〉を自らの都合に合わせ手なずけることによって、地球上に存在してきた。文明とは、快適性・利便性のあくなき追求の成果、〈自然〉支配の極限の結果なのである。
 だが、ごく一部の植物や動物の改変にとどまっているのならまだしも、自らがその中に包まれて存在する環境そのものへの大規模な改変は、人類に深刻な影響を与えずにはおかない。
 それが人類の〈自己家畜化〉なのだ。
 人類が家畜になっていく。いやすでにもう、かなりな程度に事態は進行している。先進諸国と呼ばれる国々に生息する人類・・・我々は、特に。
 試みに、〈家畜〉の特徴を列挙し、そこに〈我々〉を対置し比較してみれば、事態の深刻さが分かってもらえるだろう。例えば。

T家畜は、人工環境のなかで生かされる。
 我々は、都市という人工環境の中で生かされている。
U家畜は、供給される食糧によって生きる。
 我々は、商業資本が供給する食糧によって生きている。身体に悪いものも匠に食べさせられながら・・・。
V家畜は、商品として健康を管理される。
 我々は、労働力として健康でいる義務を負わされ管理されている。メタボ検診はその典型。
 かつての厚生省は、日中戦争さなかに陸軍の強力な要請によって生まれた。優秀な兵力を管理するために・・・。
W家畜は、生と死を管理される。
 我々は、医療によって生と死を管理されている。脳死判定、臓器移植、体外受精、優生学・・・。

 動物の一種である人類が、動物を家畜化した手法をそのまま自らに適用する構図がここにある。そして、さらに深刻なのは、人類は家畜化されることを自ら望んでさえいることだ。
 野生動物と家畜の本質的な違いの一つは、〈自由〉であるか〈束縛〉されているかだろう。
 言うまでもなく、我々は〈束縛〉を嫌う。が、ひとたび家畜化の方向に向かうと、次第にその状態に慣れてしまい、やがては、積極的に望みさえする。そして急速に、自らの力で生存していく能力を失っていくのだ。
 家畜を畜舎から放てば、彼らは自由を得て駆け回る。けれどもそれは一時的なもの。すぐにも畜舎に舞い戻ってしまう。
 そう。懸命なる読者は、すでに想起しているのではないだろうか。しばしば見かける、迷えるガン患者の姿を。
 あんなに抗ガン剤で苦しみ、あんなにも大きなダメージを放射線から受けながら・・・。そして死の危険さえ感じてようやく、そこから脱したというのにしばらくすると、またしても舞い戻ってしまうのだ。現代医療という畜舎に。
 彼らが失ったものは、自然治癒力という野生。そして、自らの生きる力に対する信頼。
 そこにあるのは、まぎれもなく、無力な家畜にも似た姿である。

 19世紀最大の哲学者のひとり、ニーチェは、ある種の現代人に共通する価値観を〈畜群道徳〉と表現した。
 では、家畜の群れにも等しい道徳とは、具体的に何を指すのか。それは、〈人と同じである〉ことに最大の価値を置く考え、いや、心の習慣のこと。
 人がやっているから、みんながそうしているから、そうするのが普通だから・・・意味などいっさい考えることなく、ただただ大多数の価値観に従う。こんな思考停止のことである。
 家畜の群れは、なにかのはずみで一匹が右に曲がると、雪崩を打って右に曲がる。どれか一等が左なら、すべてが左だ。
 〈畜群道徳〉。この言葉を初めて知ったとき、私が瞬時に思い浮かべたイメージ、それは、三大療法に唯々諾々と命を預けてしまう、大多数のガン患者の姿だった。
 みんなが手術をするから、私もする。みんなが抗ガン剤をやるから、私も。みんなが放射線をやっているなら、私も。みんなが医者に命を預けているのだから、私もそうするのが当たり前。そんな彼らにとって極力避けなくてはならないのは、〈人と違う〉ことである。
 かくて、年間34万人以上ものガン患者が、同じようにして命を落とすのだ。
 なんたる無念!

 そんな中にあって、「ウェラー・ザン・ウェル学会」2009年のシンポジウムのテーマは、〈ガンの自然退縮〉だ。
 一度は、家畜化されていた人たちが、深い気づきと命がけの努力によって、再び、いや、初めて、野生と勇気と感動を獲得する。そんな輝かしい命の跳躍がここにある。


 
 

2013年04月14日

学会誌より その6


「科学革命」とも呼ぶべきパラダイムシフトが始まる

 数年前、私が名古屋で講演をしたときのこと。終了後はたいてい何人もの患者さんやご家族に相談を持ちかけられるのだが、その日は10人以上の行列ができた。
 中に、涙を流しながら話しかけてくる30歳台の男性が一人。近郊の大病院の勤務医だと言う。
 曰く。「今までたくさんの患者さんを三大療法で治療してきたが、ちっとも治らない。今日、川竹さんの話を聞いて、その理由がよく分かった」と。
 かつて、理想に眼を輝かせて医学の道を志し、以来、半生にも匹敵する膨大な時間を投入し忠誠を捧げてきたそのパラダイムが、今は手足を縛る桎梏となって彼らを苦しめているのである。
 そんな折、ガンの患者学研究所が主催する患者会ではここ数年、新しい現象が眼につく。自らガンを患った医師や看護師たちが会員となって例会に参加してくるのである。
 そして異口同音に言う。自分の病院の治療は受けたくない。病院では治らないと。
 そんな彼らを見るにつけ、私の脳裏にはある鮮やかなイメージが浮かぶ。
 それは、かつて何百万人という乗客でにぎわった巨船が、今は見捨てられ無用の箱となりはて波間に漂う姿である。
 〈旧〉から〈新〉へ。初めに、勇気と感性を併せ持った少数の乗客(患者さん)が、ぽつぽつと船を乗り換える。やがてその数は勢いを増し、初めはたかをくっていた船員の中にも確かな動揺が広がる。
 しかも・・・あろうことか、気がつけば既に船を守るべき船員たちまでが、この巨大船を見捨て始めていた。
 そして、なんと幸いなことだろう・・・この流れを一気に加速する手段を我々はしっかりとこの手に握っているのだった。
 それは、〈旧〉にとっても、もっともやっかいな存在、〈変則事例〉、つまり、〈自然退縮者〉である。
 さらに、抗ガン剤をはじめとする副作用による死亡者がガン死者の8割にも達し、あるいは再発すれば即、「もう治らない」ことが常識とさえなっている〈旧〉の現状を見るとき、再発・転移を乗り越えて治った多数の人たちの存在も、〈旧〉にとっては変則事例となるだろう。
 クーンは言う。
 変則事例もそれが少数にとどまるときは無視すればすむ。しかしどんなに取り繕うとも無視できないほどに数が増えたとき、〈旧〉への信頼は内部からも一気に崩れ、「科学革命」とも呼ぶべきパラダイムシフトが始まるのだと。
 とすれば、我々学会のなすべきことはすでに明確だ。
 自然退縮者を次々と輩出すること。〈治ったさん〉を続々と輩出すること。治る法則を導きだすことである。
 そして、我々にはそれが可能だ。
 
 私の胸底に執拗に焼き付いてうずく言葉がある。〈旧〉の信奉者の大イベントでのこと。自らのガンに苦しむ一人の医者から、それは次のように発せられた。
「抗ガン剤は薬物である。しかし我々は、その薬物なくして一日も生きてゆけない」
 そして、絶望的なこの叫びから日ならずして、彼は逝く。
 科学は、人間を幸福にするために存在し、パラダイムシフトは、その目的をより誤り少なく、より確実に実現するためにこそ、存在しているはずだ。
 我々は、パラダイムシフトが速やかに起こることを切に望むが、それは、ただ〈旧〉を打ち倒すことを目的としているのでは、決してない。
 人間を幸福にすることから大きく逸脱した〈旧〉という船から・・・〈治ったさん〉が、自然退縮者が、ウェラー・ザン・ウェルを実現した人たちが、そして治す喜びと誇りを知った治療化や医師たちがさんざめく、この〈新〉に乗り移ることを・・・優しく手を差し出しつつ、促すだけである。〈旧〉という巨船が沈む前に。
 そしてそれが、〈新〉という船に恵まれた我々の責務だとも、私は思う。
 今、季節は6月。小さな団地の古びた机に向かう私の耳に届くのはおびただしいカエルたちの命の歌。そして記憶の彼方からの遠い響き・・・。
 ホーホー、ホータルこい。
 そっちの水は、苦いぞ。
 こっちの水は、甘いぞ。

 優しい呼びかけに応じ、〈旧〉からは、やがて船長も乗り移ってくるだろう、我々のこの船に。
 そのときパラダイムシフトは完成し、そして、新しい歴史が始まるのだ。
   (学会誌より 終わり)


 


2013年04月05日

学会誌より その5


パラダイムそのものが桎梏となる時、急速にパラダイムシフトが進展

 さて、となれば「パラダイムシフトはどのようにして起こるのか」。本稿のテーマは、ついにその解答を得ないまま宙をさまようのであろうか。
 何しろ、仮に新旧互いが科学的客観的データを持ち寄って議論を重ねようにも、上に見てきたように、そもそもそのようなものは存在しないのだから、議論は互いの信念をぶつけ合うことに終始するだろうから・・・。
 クーンは、このことに触れてあらまし次のように考えている。
 科学者たちが〈旧〉を捨て、〈新〉に乗り換える契機として、互いの優劣を比較した上での判断がある程度存在するだろうことは認めつつも、そのように合理的な理由だけでは、パラダイムシフトは起こらないのだと。
 では、どのようにして? 彼はここでも極めて斬新な指摘をする。
 パラダイムシフトは、〈旧〉に属する科学者自らにとって、パラダイムそのものが、桎梏、つまり自らを縛る手かせ足かせになったとき急速に進展するのだと。
 ガン医療の〈旧〉世界には、今、まさにこの桎梏が広がりつつある。そう感じるのは、私だけではないはずだ。
 パラダイムが有効に働いているとき、そこに属する科学者共同体にとって、それは堅固なシェルターとして守ってくれる。
 「ガンは無限に増殖する」というパラダイムは三大療法の(見せかけの、ではあったが)正当性を世間に広く深く認知させることに成功。彼らの科学者としての良心と誇りを満足させ、経済的繁栄をも保証してくれた。
 が、しかし。
 今、〈旧〉は、それを信奉する彼ら自身を苦しめ始めている。かつては守ってくれたパラダイムが、逆に自らを傷つけようとしている。
 三大療法だけでは「治せない」ことが、彼ら自身の眼にも、明らかになってきたからである。
 当学会副理事長の寺山心一翁氏はかつて、海外を含めて271人の医師に、「もしあなたがガンになったとしたら、抗ガン剤を使うかどうか」という聞き取り調査をした。
 すると「使う」と答えたのは、ただの一人。残りの270人は「使わない」だったという。
 今も日々、自分を信じて目の前に座るたくさんの患者さんに行うその治療を、当の医者自身がまったく受けるつもりがないとは・・・何たる矛盾!
        (つづく)



2013年03月24日

学会誌より その4


人は見たいものしか見えない

 クーンはさらに言う。
 ひとつのパラダイムは科学者共同体をつくり、そこに属する者は一切の疑問を抱かず、むしろ常に、さまざまな現実の問題に対してその有効性を確認しようとし、理論を補強し、適用範囲を広げていこうと努めるものだと。
 先述のテレビ番組『人間はなぜ治るのか』で、自然退縮の存在を明らかにした私のもとに、ある公共機関の勤務医から、〈客観的なデータ〉が送られてきた。
 複数の胃ガン患者を〈本人の希望により〉手術せずに観察したところ、やはり、確実にガンは進行した。だから自然退縮などあり得ないのではないかと

 先に私は「人は信じたいものしか信じない」と書いたが、今、次のように続けたい。
 「そして人は、見たいものしか見えない」
 番組制作中にはまた、こんなこともあった。 
 膵臓ガンを自然退縮させた人の主治医に電話で確認したところ、やがて答に窮した彼はこう言って電話を切る。
 「あれは、ガンでなかったと思う。私の誤診でした」
 クーンは、次のようにも言っている。
 あるパラダイムに属する科学者が、どんなに努力しても彼らの理論では説明できない〈変則事例〉に遭遇するときがある(自然退縮がまさにそれ)。と、彼らは決してパラダイムの修正を試みたりせず・・・まず、自分たちの実験や観察に誤りがあったと考えると。「自分の誤診だった」として難を逃れた(?)先の医師は、まさにこの典型だ。
 クーンは続ける。
 その変則事例が少数だと思われた場合は、存在そのものを無視してしまうと。つまり無かったことにするわけだ。
 いつだったか、国立がんセンターの医師がおおむね次のように書いているのを目にしたことがある。
 「自然退縮は、もしあったとしてもひとつのエピソードに過ぎない」と。
 エピソードとは・・・つまりまあ、単なる話であって、あってもなくても大勢に影響はないとでも言いたいらしい(それならなぜ、わざわざ書いたりするのか、ぜひとも知りたいところ)。
 「なんとまあ、人間的な!」と、クーンのおかげで科学と科学者に対する美しい誤解が解け、肩の力が抜けた今の私は、余裕を持って微笑むのだが・・・このように、パラダイムとは、科学者共同体が営々と築きあげた、強固な〈信念の体系〉という一面を持っているものなのである。
 言うまでもなくこのことは、〈旧〉に対してだけ当てはまるものではない。私が発展させようとしている〈新〉もまた同様の性質を持っているはずだと、公平を期すために明記しておこう。
        (つづく)



2013年03月16日

学会誌より その3


「科学的事実」もパラダイムの船の中

 では、どのようにすればその日はやってくるのか。
 〈旧〉の理論の重要な部分が〈客観的な証拠〉として示された〈科学的事実〉によって否定されたとき、その日はやってくる・・・と私は漠然と考えていた気がする。
 例えば16年前、私はNHK教育スペシャル『人間はなぜ治るのか』三本シリーズで数人の自然退縮者の体験を、テレビ史上はじめて詳細に紹介した。
 再発・転移はもちろん、一晩に二度も意識不明に陥るほどの末期ガンも自然退縮するという事実を〈客観的な証拠〉とともに提示したのである。
 〈旧〉の理論的支柱のすべては、ウィルヒョウのガンの定義「ガン細胞は宿主が死亡するまで増殖する」に発しているのだから、自然退縮者の存在をいう〈客観的な証拠〉によって〈旧〉はその理論的根拠を否定され、となればやがてパラダイムシフトは必然、と私は思った。素朴に。
 が、結果は〈旧〉の医師たちにコントロールされたマスコミジャーナリズムから執拗なバッシングを受けただけ。彼らの牙城はみじんも揺るがず、当然のことながら、パラダイムシフトなど起こりようも無かった。
 私は傷ついた。そして、科学的事実に背いてまで、根拠の無いバッシングを繰り返す医師やジャーナリストたちの人間性と人格に深い疑念を抱く。
 だが、あるとき科学哲学者T・S・クーンの言説に出会い、その見方を大きく修正しつつ今に至っている。
 クーンはまず、観察者の主観にまったく影響されない〈純粋に客観的な事実〉や〈純粋無垢な生の事実〉などは存在せず、あるのはただ、パラダイムの理論的枠組みという色眼鏡を通した事実に過ぎないと主張する。
 つまり。科学者たちが何を〈事実〉や〈データ〉と見なすかは、彼らがどのパラダイムに属しているかによって大きく影響される。
 もっと言えば、データは理論的背景によって、汚染されているというのである。
 クーンと同世代の科学者N・R・ハンソンは、パラダイムのこのような性質を「目の背後の眼鏡」であると比喩した。つまり科学者はまったく意識していなくとも、あらゆるデータや事実は、生まれときからすでに汚染されていると断じたのだ。
 日頃私は、「人が何かを信じるのは、信じるに足る根拠があるからではなく、ただそれを信じたいから。つまり人は、信じたいものしか信じない」のだと考えている。
 けれどもこれはあくまでも日常生活の範囲においてであって、いやしくも科学者がその研究の場において、色眼鏡をかけて観察し実験しデータを導いているとは・・・驚くほか無かった。
       (つづく)