2017年01月23日

一徹の人〈第2回〉森田三郎さん


一徹の人〈第2回〉

ヘドロの海を国際的な干潟に

森田三郎さん 

〜『いのちの田圃(たんぼ)』2001年2月号(第2号)より〜

 さまざまな分野で一筋の道を貫く人たち。崇高にして爽快なその人生の軌跡を、川竹が心からの尊敬を込めてレポートする。
 第2回は、十八年のゴミ拾いの末、ついに故郷の失われた自然を取り戻した、森田三郎さん。個人タクシーの運転手にして、県会議員。人は彼を、狼と呼ぶ。

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 望遠レンズの放列が一斉に動き、バードウオッチャーたちの口から、どよめきが漏れる。鷹がカモに襲いかかったのだ。
 青い水面がにわかに波立ち、鷹のはばたきに、水辺のヨシがざわめいた。
 千葉県習志野市、谷津干潟。周囲三・五キロ、広さ四十ヘクタール。年間を通じて百種以上の野鳥でにぎわい、ラムサール条約によって、世界的に貴重な湿地と認定された、都会の中の、美しい恵みである。

瀕死の沼
 「布団や毛布、冷蔵庫、テレビ、タンス、自転車、バイク、墓石、注射針なんか何千本も。近所の人たちは捨てるわ、トラックは産業廃棄物をバンバン捨てていくわ。解体した家、丸ごと一軒分捨てられることもあったね、何度も」
 挨拶もそこそこ、森田三郎さんは、あるゴミ捨て場の姿について、まくしたてた。
 「野菜くず、馬の糞、魚のはらわた、犬猫の死体。それが潮かぶる、泥かぶる、太い管三本から下水が流れ込んでくる。潮が引いて、夏の天日がガンガン照りつけるでしょ。物凄い匂い。臭いなんてもんじゃない。一番ひどいところでは、そんなのが、高さ四メートルも積み上がってたね、幅百二十メートルもですよ」
 とうていメモなど出来ないほどの物凄いスピードで語られるこの惨状こそ、実は、森田さんがたった一人で、ゴミ拾いを始めた頃の谷津干潟の姿なのである。
 昭和四十九年十二月十三日。森田さんは、ふと手にした朝刊で、一つの干潟が埋め立ての運命にあることを知る。
 全国の海岸が凄まじい勢いで埋め立てられていた高度成長期の日本にあって、それは、さして興味も引かない話題のはず・・・が、よく見ればその干潟とは、故郷の、あの谷津干潟ではないか。
 学校から帰るや否や、お櫃に手をつっこんで冷飯を握り、味噌を塗りたくってほうばりながら駆けつけたあの干潟・・・アサリ獲り、ハマグリ漁、ハゼのつかみ獲り、カレイ突き、ウナギの稚魚をソーメンに見立てて遊ぶソーメンすくい、潮だまりに立っていると土踏まずの下にカレイが潜り込んでくる、それをギュッと踏み付けて、簡単に生け捕る・・・みんなで手伝った地引き網、沖から飛んでくる銀ヤンマの群れに歓声をあげ、満ち潮に追い立てられて帰る頃、夏の白い砂はコメツキガニであふれていた。
 あれから二十年が過ぎていたのか・・・。懐かしさのあまり、森田さんは干潟に駆けつける。
 だが、そこにあったのは、悪臭を撒き散らすばかりの巨大なゴミの山、ヘドロの海であった。

戦いは始まった
 やがて、二十九歳の森田さんは、たった一人、ゴミを拾い始める。
 「最初は恥ずかしくて、三脚にカメラをセットして、図鑑広げてね、バードウオッチングみたいに。それで人がいないのを見計らってコソコソ拾ってね、人が来たら止めて、通り過ぎたらまた拾って」
 それでも、新聞配達員をしていた森田さんは、朝刊を配り終えると、仮眠もとらず、夕刊を配り始めるまでの五時間すべてをゴミ拾いにあてることにした。
 「やり始めた頃は、このゴミ全部拾ってやろうとか、干潟きれいにしてやろうとか、そんな気持ちは全然なかったね。だから、拾うゴミも、表面の乾いたね、発泡スチロールとかビニールとか、そんなものだけ。でも、オチンチンぶら下げて遊んだきれいな砂がこの下にあるんだと思うとね」
 ゴミ拾いは次第に熱を帯び、いつしか、ヘドロにどっぷりと腰まで浸かって作業をしていた。
 「そりゃ気持ち悪かった。ピンクや緑に光ったヘドロがシャーベットみたいになっていてね。厚手のゴム手してても、ブロックなんか持つとすぐに裂ける。おまけに手袋と指の間に砂が入って、指紋なんかすぐに全部消えたね、こすれて。怪我はもうしょっちゅう。破傷風は恐いしね」
 それはもはや、ゴミ拾いなどという生易しいものではなかった。ヘドロの底に沈んで絡まり固まった、木や金属やブロックを、ひっぺがし、引っこ抜くのだ。
 「布団だって、どっぷりとヘドロ吸ってるからね、鎌でぶったぎって、岸まで運ぶんですよ。タンスも大きくて無理だから、その場でスコップでぶっこわす。足場が悪いところでそれやるから、もう泥だらけ」
 しかも、やっとの思いで岸まで引きずり運ぶと、今度はコンクリートの護岸が行く手を阻んだ。
 「岸に下りる前に、ロープを何本も垂らしておいて、ヘドロから引き上げたゴミを括り付けて、今度は護岸の上に回って引っ張り上げるんだけど、重い、重い。冷蔵庫なんかでも、中にヘドロが入っているからね。引っ張り上げようとしてこっちも踏張るんだけど、疲れて握力が弱ってるから、ズズーッと手の中でロープが滑る。摩擦熱で煙が出るんです、ゴム手が溶けて。火傷した、何度も」

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衝突
 しかし、本当の戦いはその後。引き上げたゴミの処分である。もちろん、引き取ってくれる人など、ありはしない。
 始めは、土のう袋に詰め、一般の家庭ゴミにまぜて出せば、収集車が持っていってくれた。しかし、ヘドロをどっぷりと吸った袋はどう見ても家庭ゴミではない。すぐに置き去りにされるようになった。
 仕方なく、ゴミ袋の山を十ヶ所も作り、乾くはしから廃油をかけて燃やそうとした。が、ブスブスと黒煙を上げ、ただならぬ臭気が住宅地に立ちこめる。
 住民は次第に、容赦のない罵声を浴びせるようになり、作業をする森田さんのすぐ横でゴミを捨て、これ見よがしに放尿してゆく者も現れた。
 悪臭に困り果て、一刻も早く干潟を埋め立ててほしいと願う周辺住民にとって、森田さんの行為は、迷惑でしかないのだ。
 市役所に掛け合ってみたこともある。が、干潟の所有者である大蔵省に言えと門前払い。大蔵省は、市民が捨てたゴミを何故、国が引取る責任があるのかと。
 「あっちも一理、こっちも一理、だけどもともと干潟にはゴミなんかなかった。世界中に汚いところなんか一つもない。汚くされたところがあるだけでしょう。自分たちでゴミ捨てて、汚くしておいて、臭くて汚いから埋めてしまえなんて」 どうしても、承服できない。凍える夜も、月明かりで干潟に入った。それでも足りず、時間を稼ぐため、野宿もした。

松葉杖、キブス
 そんな戦いが二年半も続いたある日、過労のため事故にあう。足を複雑骨折し、四ヵ月もの入院生活を余儀なくされるのである。

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 絶体絶命・・・。はたせるかな、退院後に見た干潟は、それまでの二年半を嘲笑うかのように、ゴミのかさを一段と増していた。
 どんなに力を尽くそうと一人の人間が一日に拾う量など、トラック一台が捨てていく、その何分の一にもならないのだから・・・。
 が、それでも森田さんはゴミ拾いを再開する。松葉杖をつき、ギブスの足を引きずりながら、重いゴミはロープを身体に巻き付けて引き上げた。
 ヘドロを吸って冷えきったギブスの奥で、骨をつないだ金具が、不気味にずれて、きしむ。
 地元民や行政との衝突は繰り返され、不可能を可能に変える見通しなど、どこにもありそうになかった。
 「アパートに一人ポツネンといると、それまでの苦労が胸に迫ってね、貯金はない、保険もない、結婚もしない。変人、気違い、よそ者、汚い、臭い。ののしられて馬鹿呼ばわりされて、怪我までして・・・と」

私は選ぶ
 そんなある日、鏡をのぞいて愕然とする。そこには、恨みを呑んだ哀しげな二つの目。森田さんは思わず語りかけていた。
 「おい三郎、今どんな目してる・・・。世間が、住民が、市や県や国が、ああしてくれたらな、こうしてくれたらなと、恨みごと数え立てている、それが今のこの眼だ。たった一人でも、やれることをどこまでもやっていこうとしてきたはずの、お前の目か、これが。 そんなに苦労だ苦労だと思うなら、今すぐ止めてしまえ。止めてもいい、やり続けてもいい。お前はどっち選ぶんだ」
 照れからか、それまで常にこちらの視線を外すように語っていた森田さんが、この時突然、正面から見据えてきた。
 「で、俺は選んだんです、干潟を。干潟を選んだんです。きれいになるかどうか分かんない、遺せるかどうかも分かんない。
 だけど、きれいにしよう、遺していこうと努力することは出来る。その努力、その思いと行動は俺のものだよね。将来どうなるか、その判断、意見、批判は、世間のもんだよね。
 だったら、人の心の中考えることより、自分の行動と思いにエネルギーと時間注ぎ込んで、一つでも余計にゴミ拾おうと思ったね。そしたら涙が出てきてね」
 この瞬間、森田三郎は、不屈の闘士になった。
 「私が 十 拾うでしょ、そしたら、それまで 千 捨ててたトラックが、九百九十九しか捨てなくなる。また十拾うんでよ。九百九十八になる。また十拾うんです。九百九十七になる。また十拾うんです。九百九十六になる。また拾うんですよ、そしたら・・・」
 執念、意地、熱意。森田さんの全身から、そのすべてが地熱のように伝わってくる。だが、同時に、そのどれでもないもっと本能的な何か・・・。
 「ギャンブルでも、酒でも何でも、やりだしたら、止められなくなるでしょ。それと一緒ですよ」
 では、やりたくない日はなかったのか。愚問が喉まで出掛かったその一瞬。
 「ともかく、体、干潟に持ってっちゃえばいい。起きて、飯かき込んで、ガタピシ戸を閉めて、体持ってくんです、干潟に。やる気なんか待ってたら、そんなもの来ない。ともかく始めちゃえば、やってれば、やる気が出てくるんですよ。人間、これがなかったら続けられないよねえ」
 私はすでに取材を忘れ、ひたすら聞き入っていた。 
 「近隣の住民もね、雨の日も、風の日も、雪の日も、自分たちがゴミ捨ててるときにも、松葉杖ついた奴がしょっちゅうゴミ拾ってんだから、百人捨ててたのが、九十九人になり、九十人になり、八十人になって、『やー、これから少し気を付けんべや』と。それまで理屈でやっつけても、ぶん殴られたりしていたのに、少しずつブレーキがかかって、そうやって、だんだんだんだん、拾う私の方が、たちまさって」
 やがて・・・幼いころ素足で踏んだあの砂が、ゴミの下から、まぶしげに姿を現わす。魚たちは群れて夏の光を銀色に跳ね返し、渡り鳥はこぞって飛来した。 そしてゴミ拾いが『谷津干潟クリーン作戦』と呼ばれる運動となって百回を数えようとする一九八四年、習志野市は、ついに干潟の埋め立て計画を撤回。九三年には、ラムサール条約登録湿地として認定を受けるまでになるのである。
 たった一人のゴミ拾いが始まって十八年。森田さんは、勝った。
 「干潟でゴミ拾い、タクシーで客拾い、選挙で票拾い、拾ってばっかりだよ、俺の人生」
 取材の最後に、森田さんはおどけてみせる。だが、その目の奥には、鷹の目よりはるかに強烈な光が、炸裂していた。

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 文/川竹文夫




posted by 川竹文夫 at 11:32| 月刊『いのちの田圃(たんぼ)』

2017年01月09日

一徹の人〈第1回〉中川幸夫さん


一徹の人〈第1回〉

たった一人で家元制度に挑んだ生け花の巨人

中川幸夫さん(取材時83歳)
〜『いのちの田圃(たんぼ)』創刊号より〜


さまざまな分野で一筋の道を貫く人たち。崇高にして爽快なその人生の軌跡を、川竹文夫が心からの尊敬を込めてレポートする。 
 第一回は、生け花作家・中川幸夫さん。古田織部賞」を受賞し、ますます息高らかな中川さんは、不敵な笑みを浮かべつつ、この日も東京・中野の光荘で、たった一人、花の宇宙を紡ぎだしていた。

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花の血か
 「いやーもう、叱られてばかりでねえ」
 もてなしの茶菓を運びながら、そうこぼしてみせる中川幸夫さんの顔は、言葉とは裏腹に、満々たる自信をたたえて笑っている。
 三年前、初対面のときと同じだ。再会が嬉しくて、私も同じ憎まれ口が出る。
 「それだけ好き放題にやっていれば、叱られても仕方ないでしょう」
 中川さんが一層愉快そうに笑う。師なく弟子なく、八十三歳の今日まで、強大な家元制度に守られた生け花界に、徒手空拳で、挑んできた。
 その孤高の世界は、生け花というチマチマした概念をとっくに超えている。
 例えば代表作の一つ「花坊主」。深さ八十センチの透明なガラス壷に、九百本の真っ赤なカーネーションを詰め込んで一週間、腐敗に向かう花弁の、異様な姿とふるまいを味わえというのだ。
 詩人滝口修三は、その驚きを、次のように記している。『ガラス壷を白い和紙の上に逆さに置いて待つうちに、静かに滲出する花液が紙上に刻々と軌跡を描きだしたのである。
 花の血か。おそらく花たちは、互いに窒息しつつ体液を滲出するかのように思われた』
 こんなものは、生け花ではない 。花の世界に身を置いてすでに半世紀。中川さんは、そうした怒りと罵声の中で生きてきた。

池坊との決別
 「池坊の恥や!」
 昭和二十六年、第二回日本花道展。当時池坊に所属していた中川さんは、流派の代表審査員から面罵される。ミカン箱に縄を巻きつ
け、白や黄色に彩色した浜匙(はまさじ)を盛り上げた作品が、駄目だというのだ。
 しかし本当の理由は、中川さんが、出品作をあらかじめ彼に見せ、指導と許可を受けていなかったことにあった。そうすることが、しきたりであったからだ。
 だが、中川さんは納得がいかない。
 「自分のもの、自分で活けたいように活けるのは、当たり前でしょう。規則違反やゆうて、お客さんの前で怒鳴られて、黒山の人だかりですよ」
 華道界の各流派が競うこの展覧会では、流派を代表する審査員からにらまれては、入選はまったくおぼつかない。果たせるかな、結果は、予選落ちであった。 数日後、中川さんは、池坊に脱退届けを出す。
 草月流家元・勅使河原蒼風が、中川さんの作品を最も高く評価していたと、人づてに聞かされたことが唯一の救いであった。
 だが翌年、中国四国選抜作家展では、その蒼風にさえ、激しい攻撃を受ける。 
 「私の作品に手を掛けて、こう、ガタガタと揺するんですよ。揺すって壊そうとする。すぐに持って帰れって。こんなのは生け花じゃない、お客さんを迷わせるなって。展覧会の初日にですよ」
 それは、数本の杉の角材を赤と黒に塗り分けて構成した大胆なものであった。 
 「材木なんか生け花じゃないって。お客さんが理解できるように、木の上にツルか草でもかけろって言うんですわ。帽子みたいにね。 なんでそんなこと言うのかと思ったら、蒼風さんは大谷石を五つほど積み上げてね、その上に蔓をストーンとかけてあるんですわ。
 けど、石よりは、木の方がましでしょうが。一応植物なんやしね」
 ところが、その数年後。
 「蒼風さんが、杉の材木を高島屋の玄関に立ててね。アレレッと思いましたよ」 節くれた分厚い手で、頭を撫でながら・・・あんたどう思う? と言わんばかり。私の反応を笑って待つその顔は、さながらヤンチャ坊主だ。
 「先生、それは早すぎたんですよ。蒼風さんより先を行ったらまずいですよ」
 「いやー、そんなんばっかり。みんなに叱られてばかりでねえ、もう」
 鉈彫の仏像にも似た顔がひときわ豪快に笑った。

花を食べる
 昭和三十一年、中川さんは、故郷の四国丸亀から上京する。
 いかなる流派にも属さない、どこからの束縛も受けない。門弟二百万人を抱える池坊に背を向け、一人のまったく独立した作家として、人生のすべてを花に賭けようというのだ。
 たった一人で・・・。いや、出発に先立ち、中川さんはある人に電報を打っている。「トウキョウデ マツ ユキオ」
 受取人は、生涯の伴侶であり、たった一人の同志となる女性、半田唄子さん。九州の由緒ある流派・千家古儀の家元であった。
 しかも彼女は、上京に先立ち、自らの手で流派を解散、家元の座を打ち棄てていたのである。
 命がけ・・・二人の決意に思いを馳せるとき、私には、この月並みな言葉が、にわかに生々しい現実感を持って迫ってくる。
 生け花で生きるということは普通、誰かに教えて、その月謝で食べるということである。
 だが、流派に属さない人間では、それも無理。弟子たちは、流派の「型」を教わりたいからである。流派の看板もなく、いや、家元からうとんじられ、ましてや生け花とも見えない異形の花を活ける中川さんに、人は集まるはずもない。
 しかも、すぐに枯れてしまう生け花は、どんなに素晴らしくとも、売ることができないのである。
 二人の生活は、たちまち貧窮をきわめた。
 「いつもね、逃げるように野菜を持って帰ってね、八百屋から。貸しといてねーって、言い終わらないうちにもう、駆け出してね」
 窮状を見兼ねた知り合いのつてで、キャバレーで花を活け、その報酬で、六畳一間の家賃を払えば、もういくらも残らなかった。
 が、店の都合で、その金さえ予定の日にもらえないことも、しばしば。
 「電車賃がないから、二時間歩いて行ってるんです。それが、『今日は都合が悪いから』って。また歩いて帰るんです。遠い、遠い。往復四時間ですからね」
 バラ、椿・・・空腹の余り、活け終わった花たちを食べたことさえあった。
 「わりと甘いもんだけど、ゆでたりすればもっと良かったかもしれないね」
 六畳間の二人の戦場に、高笑いが弾けた。

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命の叫び
 「あっちは、富山は、山が険しいでしょ、黒部の山はね。その大川に、あっちこっちの支流から、物凄い勢いで流れ込んでくるんですよ。赤、紫、白、黄色のチューリップがねえ、何本もの流れになって入り乱れてドッ、ドッ、ドッ」
 もう二十分あまりにもなるだろうか、中川さんは、もう一つの代表作「闡(ひらく)」が生まれるきっかけとなった情景を語り続けて飽きない。
 「闡」は、深紅のチューリップ数万本の花弁を四角に固まらせ、棕櫚縄で縦横に縛ったもの。
 皮を剥がれたばかりの獣の肉塊が、静かに赤い肉汁をしたたらせている・・・見てはいけないはずのものが、突然目の前に投げ出されているような、そんな生生しさ、痛々しさ。
 「チューリップはね、球根を取るのが目的だから、花はいらない。全部捨ててしまうんですね、川に。それが、支流から大川にどんどん集まってくる。いやー見事ですよ。絨毯みたいに波打って、うねって、極彩色ですもん。何、これーって。凄い」 
 土地の人にとっては、まったく無用のもの。が、中川さんには、捨てられた花たちの叫びが聞こえた。
 「花にすりゃ、捨てられてしまって、もう生きるすべはないわけですよ、行く末はどうにもならない。だけど、それでも生きている。生々しいですよね」
 矢も盾もたまらず、中川さんは、運べるかぎりの花たちを持ち帰り、ミカン箱に詰める。
 「花びらは糖分があるのでビタビタとくっついて固まってくる。ジリ、ジリ、ジリッ、ジリッ、汁を流してね。自分の運命に反発してるんですよ。まだ生きてるんだ、どうにかしてくれって。そのね、狂い咲きのような、最後の命を見届けたいんです、こっちは」
 終始、からっと爽快であった中川さんの顔が、このときばかりは、獰猛であった。
 「花はね、猛々しいものなんです。決められた型なんかに納まらない。その花のね、自分は、ここをこう選ぶんだと、責任持ってね。だから、絶対に流派の問題じゃない。個人の問題。流派は『型』は教えるけど、『血』を教えることはできませんからね」
 中川さんの眼が、すばやく壁をたどる。そこには、ひときわ伸びやかな、半田唄子さんの遺影があった。

                         文/川竹文夫


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「納得の行かないことにはどこまでも抵抗する。好きだからやる。それで今まで生きてきたんですから、まあ、いいとしましょう。こんなことして、よく食べてこれたなあ、ちゅなもんですよ」





posted by 川竹文夫 at 05:41| 月刊『いのちの田圃(たんぼ)』

2013年05月26日

孤独


 光を表現するには、影を描く必要があります。微妙な変化に富んだ、濃密な陰影・・・深い暗さがあってこそ、輝く光は出現するのです。
きっと人生も、同じ。孤独に沈潜する時間こそ、温かく喜びに満ちた季節をプレゼントしてくれるのでしょう。自分を励ます思いで書いた一文です。


孤独

2012年7月号(139号)より

 ゴウゴウと風鳴り、ザンザンと雨叩きつける朝。窓辺の私は独り、濃霧の奥を見つめ、心の底をまさぐっていた。
 こんな嵐の中で、鳴くはずのないウグイスの声が、風にちぎれて飛び去った瞬間、私は不意に気づく。
ウェラー・ザン・ウェル患者学に欠けているものがある。この数年、そう思いながらも、それが何であるのか、どうしても分からずにもがいていた、答えに。
 それは、孤独を耕す、ことだった。
 いつも、心が最も大切だと唱えていながら、どうして今まで・・・。
 孤独には、二つの顔がある。
 ガン発病を知ったとき、私たちは人生の崩壊を突き付けられ、一変してしまった風景の真っただ中に、容赦なく放り出されてしまう。
 そのとき味わう孤独を私は、〈危機の孤独〉と呼ぶ。
 死の恐怖、怒り、悲しみ、喪失感、虚無感、無力感・・・。激しく渦巻く感情に翻弄され、引き裂かれながら、私たちは否応なく、自分の心と向き合わざるを得なくなる。
延々と繰り返してきた日々が不毛であり、信じてきた価値が空虚なものに過ぎなかったと気づかされ・・・すなわち、自分は、知らないまま、生き損じてしまっていたのだと思い知らされるのだ。
何という、激烈な孤独であることか。進むべき道など、どこにも、見えるはずもない。
だがやがて。この危機の孤独の中でもがき抜いたとき、人は深い静けさの中に、一筋の光の道が続いていることに気づく。
〈誕生の孤独〉が訪れたのだ。
命をいつくしんで流れる時間に、日々、身を浸すとき、私たちは、もうすでに、新しい自分が生まれ、光の道を歩き始めていることに気づくだろう。
小さな草や花や鳥たちと、つながっている自分。
誕生の孤独に身を浸すとき、私たちは、初めてすべてに生かされているという平安を得る。平安は生き抜く力を生む。
そのとき、ウェラー・ザン・ウェルの頂は、霧を払って、微笑みかけてくれるのだ。
私たちはみな毎日、孤独の中から何ごとかを成す。そしてまた、孤独の中に帰っていくのだ、新しい日のために。
ああ、明日からのウェラー・ザン・ウェル患者学は、孤独というこの命の源を、ゆっくりと豊かに深く、耕してゆきたい。


posted by 川竹文夫 at 18:08| 月刊『いのちの田圃(たんぼ)』

2013年04月21日

合唱


 結婚式は一瞬のできごとだけど、結婚生活は、お互いにとって、山あり谷あり吹雪あり嵐あり土砂崩れありの難行苦行の長―い時間の連続また連続・・・で、まあ、今は、以下のようになっている次第。


合唱

2012年9月号(141号)より

            
 「一年が速過ぎるね。三日より短い気がする」「まさか。でも、ほんとうね」
 などと、妻と笑ったその日、気がつけば僕は誕生日だった。七十歳がグワンと轟音を発して急接近していたのである。
 『良く生きてこれたね、お互い』と、二人が合唱のように話した(だから、二重カッコにしました)。そう言えば、最近、腹が鳴っても、どっちのが鳴ったのか、分からないことがしばしば。『今のどっち?』と苦笑いし、そのあまりに息の合った合唱ぶりに、また二人で笑う。こんな風だから、一年も速いんですね、きっと。
「へえーっ、そうなのっ!?」と、妻からまったく意外な話を聞かされて驚くことが多くなった。と、たいてい妻はコロコロ笑う。僕は瞬間に悟る、またやっちゃったらしいと。
妻が言う。「何回同じ話聞いても、ブンちゃん(僕のこと)は、新鮮でいいね」。そう。すぐに忘れる。決していいかげんに聞いてるわけじゃない。感動もする。けれど、忘れる。
「いいね、その服。いつ買ったの?」と僕。
「五年前。何十回も着てる」と笑う妻。「いいよ、似合うよ」「アリガト」。こんな風だから、一年も速いんですね、きっと。
駅の改札を入った僕の背中に、妻の声が追いすがってくる。「ハンタイ、ハンタイ。あっちの階段下りてっ」。分かってるよ、そんなこと。と、バレバレのさりげなさで、軌道修正。正しい階段を下りたのはいいけれど、背後のホームに電車が滑り込んでくると・・・「おい、何してんだ俺はっ!」。なぜか逆方向の電車に乗ってしまっている。これ、僕の得意技の一つ。こんな風だから、一年も速いんですね、きっと。
『最近、肌がきれいになったね。シワが減ったね』。ひところ、こんな合唱で盛り上がった日々があって・・・あるとき、とたんにギョッとなった。『もしかして、二人とも目が悪くなっただけ? シワが見えないだけ?』。あれ以来、しなくなったね、この話。 
つい先日、ある漢字が思い出せないので、妻に聞いた。「どう書くの?」と。「コザトヘンにね・・・」とさっそく妻。すると僕。「コザトヘンってニンベンのこと?」「どうして、そうなるの? どう言えばいいのか分かんなーい」。しばらく大笑い。妻の苦労は絶えないまま、結婚して半世紀も近い。
〈今まで内緒にしてたけれど、僕の一番幸せな瞬間、それはね、君の笑顔が膨らんで、大きく開いてゆくのを、ただ眺めてるときなんだ・・・〉
  妻にプレゼントしたあの曲。来年こそ、ピアノ弾き語りで聞かせてあげよう。ぼやぼやしてると、一年なんて、三日より速く過ぎるから・・・ね。



posted by 川竹文夫 at 15:25| 月刊『いのちの田圃(たんぼ)』

2013年04月09日

赦(ゆる)しの音


 今年6月15(土)16(日)の両日、私たちは、『日本ウェラー・ザン・ウェル学会シンポジウム』を開催する。そして、次のように宣言する。
「自分の命は、自分で守れ。自分の未来は時分で築け。患者の〈依存〉、医者の〈支配〉。そんな関係から脱却しよう。300人以上の〈治ったさん〉。40人以上の自然退縮者。ウェラー・ザン・ウェル患者学の、自分で治す、知恵と技術がここにある。シンポジウムの二日間、その最新理論を学び合おう、心ゆくまで徹底的に!」
 以下の『巻頭言』は、ここに至る、すべての始まりの瞬間を記したものだ。



赦(ゆる)しの音

         『いのちの田圃』22号(2002年10月)より

 秋。木々や草たちの葉が、水気を手放してゆくにつれ、野に渡る音は、日増しに明るく乾いてくる。
 大好きな、そんな音を拾いに出たはずなのに、突然耳に響いてきたのは、十年前の、あの音だった。
 二十台もの電話が切れ目なく叫ぶ、あの音・・・。
 腎臓ガン発病の二年後、私は、「人間はなぜ治るのか」を制作する。だが、〈心がガンを治す〉と訴えたこのシリーズは、週刊誌から、いわれのない中傷を受けた。曰く。「新興宗教のキャンペーン番組」。
 そして、放送直前にそのことを知ったNHKは、番組に登場するすべての病院の名前を伏せ、どんな問い合わせや相談にも一切答えないという暴挙に出た。
 次から次。来る日も来る日も。私は断るためにのみ、受話器を取り続けた。怒鳴る人。泣きだす人。患者である私にとって、これは拷問に等しい。いかにも容体の悪そうな人には、夜、自宅からそっと電話で教えたが、けれど、そんなもの・・・。
 恐ろしい分量の手紙も届き、深夜、一人で手に取ると指先は冷えて痛み、痛みは、私が患者さんたちに、大きな負債を負ってしまったことを思い知らせるのだった。
 知人の精神科医は、手紙をすべて焼却しろと・・・。しかし、十年後の今も、それは私の部屋にある。
 せめてもの罪滅ぼしに本を書き、ガン患研の活動も開始した。けれど、声がする。どうして、職場のど真ん中で大声張り上げて教えてやれなかったのか。お前にしかできないことを、お前はやらなかった・・・。そんな内なる声が、今も胸の底から、ゆらゆらとヘドロのように立ち上ってくるのだ。
 けれど来春四月。神様は私に、素晴
らしいチャンスを与えてくださる。
 治った百人と治したい千人が一堂に会する『千百人集会』のその瞬間、千百の胸に、新しい音が宿るのだ。
 それは、千人が求めて得られなかった希望の音。百人が、そのまた前の百人から受け取った勇気の音。
 それは、たちまち会場に充満し、すぐにも外に溢れ出て、勇気と希望のうねりを日本列島に広げてゆくだろう。
 その日、私は、手紙を焼く。あの音と決別する。
 「もういいよ」。十年前の人たちが、こんどこそ、そう言ってくれそうな気がするから。



posted by 川竹文夫 at 15:58| 月刊『いのちの田圃(たんぼ)』