2017年07月15日

一徹の人〈第7回〉 熊田千佳慕さん


昆虫と花、写実と詩情の絵本作家

熊田 千佳慕さん

〜『いのちの田圃(たんぼ)』2001年8月号(第8号)より〜


さまざまな分野で一筋の道を貫く人たち。崇高にして爽快なその人生の軌跡を、川竹が心からの尊敬を込めてレポートする。
 今回は、フランスの人たちからも、プチファーブルと慕われる熊田千佳慕さん。作品を待ちわびるパリの自然史博物館からは、昆虫の標本が送られてくる。

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 どんなに目を凝らしても、私の眼に、 それ は、ついに見えなかった。
 それ とは、小指半分ほどの細い筆先が、さらに尖ってすっと空中に消えていく・・・その最も先端の毛先わずかに、三本のこと。 だが、熊田千佳慕さんは、その三本を駆使して、愛すべき昆虫や花たちを描いてきたのだという。
 戦後の半世紀、そして、九十歳の今も、肉眼で。
 私は、信じられない思いで、制作途中の白い紙に眼を転じた。
 すると、確かに それ が、ほんのわずかずつ、しかし、おびただしく行き来した、まぎれもない証拠を認めることが出来た。
 かぼそいかぼそい、あるか無きかの、描線の重なりが、何かの昆虫の頭部を形づくっているのである。画面の大きさは四十三p×二十六p。なのに。
 「一枚描くのに、四ヶ月はかかっちゃいますね」
 朝の十時から深夜一時まで。まる一週間、毎日描き続けてなお・・・この日までに、親指の第一関節ほどしか、描けていない。

細密技法誕生
 「神様が授けてくださったとしか、言いようがないですね、この細密技法は」
 作品を覗き込む私の頭上に、自ら心に噛みしめるような声が降ってきた。
 「新婚八日目に、横浜大空襲で着のみ着のまま、丸裸で焼け出されちゃって。この描き方になったのは、そのおかげなんです」
 何故なら・・・。
 「疎開した先の縁の下に、コッチコチに固まった使い残しの絵の具が捨ててあったんです。全部なくしてましたでしょう、絵の具も何も。だから大喜びで」
 さっそくチューブを破り、指先にちょっと水をつけて溶いてみた。すると。
 「いい色、出たんですよ。もうー、嬉しくて嬉しくてしょうがなくて」
 ところが、あまりに古かったせいか、どうしてもごく少量しか溶けない。しかも、チューブの底に残ったわずかなものである。
 「普通にさっとやると、一筆で、もう無くなっちゃう。残念でねえ」
 だが・・・困り果て、考えあぐねた末に、ついに、ひらめくものがあった。
 「あっ、てね。広い平らな面でも、ほそーい線がいっぱい集まって出来てるんだって。あっ、そうかっと。それじゃ筆の先に、ちょこっとだけ絵の具つけて、細い線を重ねていけば、いつかは面になるだろうと」
 独特の細密描法は、こうして生まれたのである。
 不思議な伏線もあった。 熊田さんは当時、商業デザイナーとして活躍していたが、焼け出されて三日後。絵の師匠が、画材一式を提供してくれるという。
 「いつも、先生の言うことなら何でも素直に聞くのに、その時に限って、どういうわけだか、今でも、自分でも、まったく分からないんですけど、即座にね、絵の具も何もいりませんと」
 断ってしまった。
 絵の具がなければ、たちまち困るはずだが。
 「そうなんだけどね、そんなこと、頭にちらっとも浮かばなかったですね。何だか知らないけど、いらないって、きっぱり」
 もしあの時、絵の具をもらっていれば・・・。
 「当然、今の技法はないですね。不自由しなかったら、普通に描いていた」
 だから、この技法は、神様から授かったものなのだと、繰り返すのである。

神様のパズル
 「神様はいっつもね、僕にその時どきにパズルを用意してくださってね、それ、解いてきただけ。だから僕の人生は、神様のシナリオどおり」
 熱烈なファンの会を持ち、熊田記念館建設が計画され、ファーブルの故国フランスからは、『プチファーブル』と敬愛をこめて呼ばれる。その作品と九十年のすべてが「神様のパズル」のおかげだと笑う。
 生れつきの病弱。虫や花を眺めるのが唯一の遊びだったこと。
 そんな彼に、医師であった父親が、当時では珍しかった『ファーブル昆虫記』を語って聞かせたこと。
 幼稚園の頃、藤棚にとまったクマンバチの、黄色に輝く背中の毛に触れようと、何度も何度も飛び上がったことがあった。
 「ようやく触れた瞬間、ああ、虫は生きてるんだと、びりっと感じた」
 一部始終を見守っていた園長が優しくほめ、「どんどん虫たちと遊びなさい」と励ましてくれたこと。
 そして十八歳。気がつけば、大人になっても決して、酒も煙草もやるまいと決心していたこと。
 「将来は、小さい人のために、虫や花、描いてあげようと。そのために、体だけでも、ピュアに、清らかにしておきたいでしょ」
 照れたように頭を掻く。と、何かを思い出したらしい。急に真顔に戻った。
 「焼け出されて、先生が画材一式下さるって時に」
 絵の具だけではなく、
 「どうしてか、消しゴムもいらないって言っちゃったんですね。それで、6Bの鉛筆一本だけいただいて」 
 本当に不思議だと、私も思う。消しゴムくらい、わざわざ断るほどのことでもない気がするが・・・。
 「そうでしょう。でね、消しゴムがないから、消せないんですよ。ちょっとした線一本でも。それで、虫を描くんでも、その場ではスケッチしないで、徹底的に見て、見つめて、見極めて、おもしろい姿を記憶に焼き付けて、家に帰ってから、決定的な線を引くようになっちゃったんです」
 そして、敗戦間もなく、
 「赤、青、黄のゴッテゴッテの原色ばかりの」粗悪な絵本が出回ったこと。
 「それ見たとたん、たまらなくなっちゃって。こんなもの小さい人に見せてはいけない。自分が描かなきゃいけないと思って、女房に一言も相談せずに」
 勤めていたデザイン工房を、突然、辞職。絵本作家になったという。
 「僕の人生は、そういうことの積み重ね。みんな、神様が用意してくれた」
 こともなげに笑う。

虫は私
 天を突き破る巨木とも見えるのは、野アザミ。その下には、ラバの糞が、残照に輝いて黄金色の山・・・ どこまでも透明な大気に羽音を響かせて、今、熊田さんが最も愛する、センチコガネの、にぎやかな夕食が始まったばかり。
 〈神さまはわたしたちセンチコガネに、地上のふんをかたづけるようにいわれました。
 それなのに人間たちは、わたしたちをくそ虫といって馬鹿にしたり、汚い虫といって毛嫌いしています。 わたしたちはわたしたちのために生きているのです。幸せな生活です〉
 絵本『ファーブル昆虫記の虫たち』にそう記す時、熊田さんは、すでに一匹の虫である。
 「汚い仕事でも、一生懸命、力一杯働くことの出来る天命をいただいてるのだから、幸せなんですね。黒い体も、光が当たると、青や緑に光ってすごくきれい。汚い仕事だから、神様がきれいな服を着せてくれたんです。思いやりですよ」
 遥か先には、南仏プロバンス地方特有の乾燥した大地が描かれ、それは、土地の人たちが、「プチファーブルは、絶対、ここに来たことがあるはず」と絶賛するほど。
 だが熊田さんは、写真すら見たことがない。
 「ファーブルの昆虫記読んでるでしょ、何度も何度も。夢に出てくるんです。石ころの多いところだぞ、とか。僕自身、不思議」
 『バラのゆりかご』と題された作品には、ピンクと白の巨大なバラ。
 目を凝らせば、その花びらの表面は、他のどんな画家たちの絵とも違う。
 「私も、ずっとツルツルだと思ってた。でも、よく見ると縮緬のシボみたいに、点をいっぱい寄せたような細かい細かい凹凸がいっぱい。ザラザラ」
 そのすべてを、撫でるように、指先に愛でるように、徹底的に描き込んだ。
 「八十歳にもなると、残りの時間が少ない。だから、この花描くのは最後と思って見るんですね。一期一会。そしたらどんどん眼が良くなって、見えてきたんです。見えると描かなきゃすまないから、余計手間がかかっちゃって・・・」
 熊田さんの願いは、ファーブルの虫たちを百枚描くこと。だが、完成したのは、現在三十二枚。一年三枚と計算すると・・・。

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シャイな人生
 帰りの地下鉄に揺られながら、私は、熊田さんが語りたがらなかった、ある断片を、拾い集めていた。
 七十歳になるまでは、まったくの無名。「暗ーいトンネルの中」。なのに、一度も他の仕事で稼ごうとはせず、奥さんにも固く禁じてきた。
 売れば楽になるのに、一枚も絵を売ろうとはせず、パリのユネスコ本部が、
 「いくらでも好きな値段を付けてくれ」と言ってきてさえ、ついに拒否。
 「この絵は、神様から授かったものだから」
 これが、ようやく話してくれた、すべてだった。
 そう、熊田さんは明らかに、苦労話を避けていた。 確かに、芸術家は作品がすべて。だが、シャイでお洒落な熊田さんのこと。それ以上に照れ臭かったに違いない。
 何しろ、毎日のことなのに、近所の銭湯と、虫のいる原っぱに出掛けるときさえ、下着からすべて着替えねば気が済まず、その下着には、毎晩必ず、自らアイロンをかけ・・・「いくつになっても颯爽として見せたいから」と、ひそかに、
 『エスカレーターの、さり気ない乗り降りの姿』なるものを練習しているくらいなのだから。
 自宅は今も、元農家の納屋。石油コンロで煮炊きをし、奥さんの衣類一切と熊田さんの下着は、足踏みミシンで縫っているという。 なのに、いや、だからこそと言うべきか。取材の終わりに、二人が顔見合わせたあの笑顔・・・。
 それは、人生の喜怒哀楽に洗われて、糊の効いた浴衣さながら。実にさっぱりと香っていた。
 その潔さ・・・。

posted by 川竹文夫 at 10:22| 月刊『いのちの田圃(たんぼ)』

2017年05月30日

一徹の人〈第6回〉 岡本敏子さん


岡本太郎を永遠に

岡本 敏子さん

〜『いのちの田圃』2001年6月号(第6号より)〜


さまざまな分野で一筋の道を貫く人たち。崇高にして爽快なその人生の軌跡を、川竹が心からの尊敬を込めてレポートする。
 第六回は、岡本太郎記念館館長の岡本敏子さん。およそ半世紀、太郎に寄り添い、共に闘い、今は、そのたぐいまれな作品世界を世に広めることに情熱を注いでいる。

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「太郎さんがいなくなれば、殉死するつもり」
 地下鉄を降り、真昼の地上に出たとたん、岡本敏子さんの、こんな言葉が脳裏に弾けた。
 旧姓平野。秘書として、養女として、およそ五十年、岡本太郎の一部始終に寄り添ってきた人である。
 『抱きしめて、胸の谷間に、あるいは子宮のなかに押し込んで温めてやりたくなるような・・・』
 太郎への濃密な思いを綴った文章が、取材への意欲を駆り立ててくる。
 最後の角を左に曲がる。ブロック塀から緑の密集があふれている。岡本太郎記念館。ここだ!
 画家、彫刻家、作家、思想家。自ら語っていたその言葉どおり、戦後日本の象徴的人間像であり続けた太郎と敏子さんの宇宙である。

太郎巫女
 「殉死するんじゃないかって、みんな心配して見にきてくれるんですが、太郎さんが頭のすぐ上から、ピカピカチャカチャカ、あれをやれ、これをやれって指令を発するものですから、生きてらっしゃる時より、ずっと忙しいのよ」
 挨拶を終えて三十秒もたたないのに、太郎の話となると、とたんに満面笑み。唄うように語り、目には恍惚の色さえ宿る。十九年前初めてお会いした時から、いつも、必ず、である。
 太郎没後、五年半。
 敏子さんは今、彼の仕事を世に広め、永遠の歴史にとどめようと、命のありったけを注いでいる。
 例えば、川崎市の岡本太郎美術館建設に奔走し、それに先駆け、半世紀を共に過ごした岡本邸を記念館として公開。
 太郎への愛惜を連らねた三冊の著作を発表しつつ、年間二十冊あまりも刊行される関連本の多くに、太郎への思いの限りを綴り、講演会やテレビでもひたすら太郎の引力を語り続けている。
 「今の私はね、太郎さんの巫女なんです。彼のこと、みんなに知ってもらいたいの。だって、本当にあんなに素晴らしい人、世界中どんなに探してもいない。
 あんな人が、この日本にいたってこと自体が大きな事件だし、奇跡なのよ」
 手放しの太郎讃歌が、陽気なさざ波のように放射されてくる。

二人の戦場
 昭和二十四年頃のこと。大学を出たばかりの敏子さんは、ごく自然に岡本太郎の仕事を手伝い始め・・・原稿清書、資料収集、スケジュール調整、そしてあっという間に、あらゆる取材に同行するまでになっていった。
 「あの方せっかちでしょ。もう、頭の中で色んな考えが押し合いへしあいしていて、メモしてるんだけど、地団駄踏んで、ネズミ花火が跳ねてるような字なの。フランス語もいっぱい入っているし、読めないんですよ。いちいち、聞くくらいなら、初めから私が書いた方がずっと早いんですよ」 
 日本全国を駆け巡っての取材、ちょっとした打ち合せ、酒席の議論、太郎の口から飛び出すどんな断片ももらさず記録した。
 「テープ、テープ」
 太郎がこう叫ぶ。だがそれは、録音ではなく、敏子さんにメモの催促をしているのである。
 「次から次、ポンポンと、いいことおっしゃるんだけど、みんな忘れちゃうんです、あの方」
 だが、テープでは、書き起こすだけで膨大な時間がかかってしまう。
 次第に、メモを取りながら原稿の骨組みを練るまでになり、太郎の著作は、すべて敏子さんの口述筆記になった。
 「わたくしが書きながら質問するでしょ、そうすると、あの方の考えが、また飛躍するの。あんなにスリリングで、ゾクゾクワクワクすることはなかった」
 若者たちのバイブルともなったベストセラー『今日の芸術』、伝統と対峙する決意を説いた『日本の伝統』、戦後最高のルポルタージュと絶賛された『日本再発見』、そして世界の魂と斬り結んだ『美の呪力』。数々の著作が、このようにして生み出されていったのである。
 そしてもちろん、アトリエでの絵画制作でも、すべての瞬間を太郎と共有してきた。
 「私はね、『わあー凄い!』とか、『いいわねえ、いいなあ』とか、涙流して喜んでるだけ。
 ところがね、時々、なんか違うなーって思うことがあって、と、あの方、敏感だから、そういう時に限ってまた『どうだ』って聞くんです。『どうなんだよ。思ってることがあるんだろ、言えよ』って。
 それで困ってね、言えるようになったら言いますって、部屋を出ていこうとすると、『なんだ』って、おもしろくなさそうな顔して、描くのやめちゃうの。だから、あの人、ずっと見てなくちゃだめなんですよ。彫刻するんでも、絵を描くんでも、ずーっと」
 やんちゃ坊主を見るように、目を細める。
 だがそれでいて、敏子さんが自分に向ける眼差しはどこまでも冷静である。
 「創造するってことは、孤独な営みでしょ。だから私は、あの方の創造に一センチも一ミリも役立ったなんて思わない。そんな傲慢不遜なこと、とんでもない」
 太郎がいる。どんな瞬間にも敏子さんがいる。
 太郎はいつも反射的に動くが、同時に敏子さんも動くものと信じている。だから、敏子さんは化粧を一切しない。髪も短く切りっぱなし。そんなことにかまっている時間など、とてもとても。
 一年三百六十五日、来る日も来る日も、完全な二十四時間態勢。そんな五十年だった。
 「よくね、疲れなかったかって聞かれるんですけど、全然。だって本当に素敵なのよ。常に挑戦してるんだし、常に新しいことやってるんだし、あんな男の子はいませんよ。可愛いし、純粋だし」

奇跡の二人
 気がつけば、私の口は、こんな音声を発していた。 
 「しかし、本当によく、ここまでヌケヌケと礼賛出来るものですね」
 しまった、と思った。しかし敏子さんは、この日最大の笑顔で、またしてもあのさざ波を送ってくる。
 「ほんとうにね。その通りね。しかもね、岡本太郎というと・・・」
 挑戦 とか、 芸術は爆発だ と叫ぶ、やたらと元気で風変わりな人物だと思われがちである。
 マスコミがそんな虚像を作り上げ、太郎は太郎で、そんなことは意にも介さずに楽しんでいた。
 しかし・・・と、太郎の母・岡本かの子のファンでもある敏子さんは言う。
 「かの子はね、いろんな嘆きや恨みを猛り狂いながら子供の太郎さんに注ぎ込んだんですよね。
 それを一生懸命になって聞いてね、母親を支えてやろうとしてたのね。だから、それがなんかの拍子にね、すごい孤独や孤愁になって表れるのね。
 どんなにみんなにチヤホヤされていても、どんなに大きな仕事して、その真ん中にいる時でも、すごく孤独なのね。それは、本当にかわいそう。抱いて、温めてあげるしか出来ないものなの」
 『子宮のなかに押し込んで温めて・・・』
 その言葉の熱を心に確かめつつ、私は意を決して愚問を発した。どうして、結婚しなかったのかと。
 「川竹さんまでそんなこと聞くの? でもね、一度もそんなこと考えたこともない。結婚したいとか、出来るかとか、ともかくまったく。結婚なんてすると縛られるし、あの方も全然」
 考えてはいなかったという。養女になったことも、何故、いつ、そうなったのかも分からない。
 「あの方も、養女にしたよとも、するよとも、何とも言わなかったし、どうでもいいと思ってる」
 恋人でなく、夫婦でなく、互いを縛らず依存せず。内助の功や献身などという湿った言葉も二人の間にはまったくない。ましてや苦労など、微塵も。
 それでいて、いや、それだからこその、互いへの完全な尊重といたわり。
 「本当に、奇跡のような関係ですね」
 十九年前、二ヵ月近くもお二人を取材して以来、心に膨らむ一方だった言葉を、私は、初めて口にした。 

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共同制作
 一九九五年十二月三十一日。敏子さんは、日記に次のように記す。
 パーキンソン病にかかっていた太郎が、いよいよ動けなくなってきたのだ。
 〈寝室から二階の食堂につれて来て、エプロンをかけさせようとして、思わず抱きしめてこうささやいた。
 「先生。先生と一緒に闘ったわねえ。闘ってるのよ、いまも。分かる? 私の出来る限り、闘ってるのよ。見ててね。見てて、助けてね」〉
 そして、明くる一月七日。岡本太郎は、八十四年の命を閉じた。
 それは、あらゆる権威と常識に挑み続け、前衛を貫き通した生涯だった。
 「ある人がね、本当に愛していたら、危険なことをやめさせるのが普通だって言うのね。そんな、とんでもない! 闘うのが岡本太郎なんであってね、たとえ血だらけになっても、もっともっと挑んでいくのが岡本太郎よ。やめさせるなんてもったいないでしょ。
 本当にね、あんな凄い人の側にずっといて、私が一番ぜいたくしてる。
 今もね、太郎さんの指令が飛んでるの、あれやれこれやれって。私は、岡本太郎さんが私にやらせたいことが終わっちゃえば、そこでスパッと亡くなると思ってますからね、全然思いわずらいがないのね」
 午後の、金色の斜光のなかに、またしても敏子さんの笑いが散乱する。
 その暖かな響きの中で、私の心に、一つの思いが芽生えていた。
 敏子さんは、太郎の作品の創造には、一センチ、一ミリも貢献していないと言う。けれど・・・、
 人間岡本太郎という巨大な作品は・・・まぎれもなく、敏子さんと太郎の、共同制作ではなかったかと。


posted by 川竹文夫 at 10:46| 月刊『いのちの田圃(たんぼ)』

2017年04月18日

一徹の人〈第5回〉 川口由一さん


一徹の人〈第5回〉

地球に一切の負担を掛けない自然農

川口由一さん 

〜『いのちの田圃(たんぼ)』2001年5月号(第5号)より〜

 さまざまな分野で一筋の道を貫く人たち。崇高にして爽快なその人生の軌跡を、川竹が心からの尊敬を込めてレポートする。
 第五回は、自然農の川口由一さん。耕さず、農薬も肥料も使わず、虫や草を敵としない。栽培する人、食べる人、すべての人の命を一切損ねず栄えさせるのが、自然農・・・柔軟にして剛直な信念がここにある。

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 インタヴューを終えて窓辺に立つと、十階のそこからは、視界一面、ビルの群れが見渡せた。
 都市から都市へ、コンクリートの砂漠が、はるかに連なり広がる・・・その灰色の風景は、私の耳に、たった今別れたばかりの川口由一さんの、やわらかな関西弁をよみがえらせた。
 「耕して、農薬や肥料をまいている田圃は、耕せば耕すほど、砂漠みたいになっていきますのやわ」
 農薬も肥料も一切使わない。それどころか、土を耕すことも否定し、除草もほとんどしない。
 だから、川口さんの田圃だけは、いつも草ぼうぼう。その草々の中で稲を育て、その葉や茎や根元には、さまざまに虫たちが命を営む・・・奈良市桜井の地で、そうした『自然農』を二十三年間続けてきた。
 耕すことは、土を豊かにすること  栽培とは、雑草を抜き、害虫を排除すること 
 固く、そう信じて疑わなかった私の常識は木っ端微塵に打ち砕かれ・・・その心地よい驚きをもう一度確かめたくて、私はいつしか、取材の一部始終を心に手繰り寄せていた。

主張せず、争わず
 この日、私には、どうしても聞きたいことが一つあった。世の常識を越えた世界を切り開く人につきまとうであろう、周囲との摩擦についてである。
 「周りの人たちの田圃には草一本も・・・」
 こう切りだした質問の先を察知して、川口さんの眼に、柔和な笑いが宿った。 
 「苦情はいっぱいありましたよ。一番多かったのは、虫の問題ですね、僕とこの田圃は虫の天国ですからね。それが隣の田圃に飛んでいくんやないかって心配なんです。でも、手を加えない自然のままの田圃は、生きものたちのバランスが取れているので、増えすぎて、よその田圃に飛んでいくということはありえない。 
 草の問題にしても、本当は周囲には何の害も与えていないんです。
 でも、言えば言うほど、説明すればするほど、衝突してしまう、争いになる。 そんなことでエネルギー使ったら、僕は田圃に行けなくなりますやろ。
 だから何を言われても、『そうですね』『そうですね』って、一生懸命聞くんですわ。何を言われても、どんなに怒られても黙って聞きますのやわ。相手も言うだけ言うと、だんだん疲れてきて、そのうち日も暮れてくるしね」
 しかし、中にはどうしても草を刈れと迫る人もいるのではないか・・・。
 「そうしたら、田圃の縁だけちょっと刈ってあげますね、相手が納得するように。相手の言うことはしっかり聞く。でも、やりたいことは、やりたいように、やり通しますのやわ。
 他人に分かってもらっても、自分の人生にも、幸不幸にも関係ない。やることやって、それで初めて僕は救われるんです」
 五年もすれば、誰も文句を言ってこなくなったと、朗らかに笑った。


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命が困って
 しかしその川口さんも、二十三年前までは、農薬や化学肥料にどっぷりと浸かっていた。
 「農薬は危険だと知ってはいたけれど、それより他にやりようを知らないからね。空気の通らない合羽着て、マスクして、ゴム手袋着て作業してると、皮膚呼吸しないから苦しいし、暑くて暑くて汗がダラダラ、もう脱がざるをえないんです。脱いだら農薬がもろにかかるんですけど」
 中学卒業と同時に農業を継いだその翌年には、すでに下痢と嘔吐を繰り返し、原因不明の高熱が続く身体になっていた。
 しかしそれでもなお、収量をあげるため、人よりはるかに多量の農薬と肥料を使う日々が続く。
 身体の変調はいつしか肝炎にまで進み、黄疸症状さえ出るほどになっていた。
 「顔のあっちこっちに水が停滞してね、耳の下なんかが膨れるんですよ。病院で抜いてもらっても、治す方法はないと言われて」
 気が付くと、そんな生活が、二十数年続いていた。
 「もうね、身体も心も限界。希望もなにもないし。それでも知恵は浅いし狭いから、そうとしか生きられない。とうとう命が困ってしまって・・・」
 が、ある日、そんな川口さんの眼に、一つの新聞記事が飛び込んでくる。
 後に大ベストセラーとなる有吉佐和子さんの『複合汚染』の連載であった。
 「もう、びっくりしてね、僕のやってる農業は、こういう恐ろしいことだったのかってね。知らないっていうことは、これほど愚かなのか、愚かであることは、これほど人を不幸にするのかって痛感しましたね。パッと目が覚めて、そしたらもう、今までの農業は嫌で嫌で出来ませんのやわ」
 その直後、たまたま手にした一冊の本が、さらに背中を押す。.福岡正信著『自然農法』である。
 不耕耘(耕さない)、無除草、無肥料、無農薬。新しい世界がそこにあった。 
 「ああ本来の農業は、こうなんか。何もしなくてもいい、それが自然の営みなんだって、それまでの常識をはずしてくれまして」
 進むべき道は、この時決まった。が、それは長い苦闘の始まりでもあった。

最小限の手助け
 「二年間は大失敗で、全滅しちゃったんです」
 普通なら、まず一部の田圃で実験をするだろう。だが川口さんはそうしなかった。七反の田圃すべてで、自然農を試み、失敗した。 
 「生活の見通しも何もありませんのやけども、知ってしまった以上、間違ったことはしたくない。嫌なことはしたくないので」
 失敗の原因は、無除草にあった。一切草を刈らない田圃は、田植えの時期には、春に芽を出した草がぼうぼうと繁り、その下には次の季節の草々も、すでに育ち始めている。
 しかも川口さんは、そこに稲の種を直蒔きした。すると、辛うじて出てきた稲の芽も、たちまち草に負けてしまうのだった。
 三年目。今度は用心のため、あらかじめ、別な場所に苗を育てておいた。
 「直蒔きして、他の草に負けてしまったところに、その苗を植えたんですよ。草を倒して、その上にね。そしたら、苗は苗床で、人で言えば少年期くらいまで育ってるので、他の草に負けないで育ったんです。まわりに生えてるたくましい大きい草は、刈り取って田圃に置いといてあげれば、いずれ亡骸(なきがら)になって、肥料になってお米を育ててくれるし。
 人間でも、赤ちゃんの時は、手をかけてやるでしょう。お米もそれと同じ。草に負けないように、一番必要な時にだけ、最小限手を貸してやったんです。二ヵ月もすると青年期くらいになる。そうなったら、後は一切、草も刈らず」
 三年目にして初めて、稲は実った。それはまさに、一条の光だった。


命の巡り
 「耕さないで三〜四年もすると、田圃の土がフカフカホロホロとなりますのや」 こともなげに言う。何故なら・・・
 「山や森の土は、フカフカしてるでしょう。あれはね、草ぐさや小動物たちの亡骸が積もった、亡骸の層なんですのや。土やないんです。田圃も、耕さずにいたら、だんだんだんだん、そうなってくるんです」
 稲のように、四〜五月に生え始め、冬の前に命を終わる夏草。麦のように、秋の終わりや冬の初めに始まって、六月ごろの夏の初めに命を終える冬の草。
 田圃のなかでは、半年毎に、この二つが交替し巡っているという。
 夏の命を終えたものは、やがて亡骸となり、その亡骸の下から、冬の命が育ってくる。しかし、その命もまた、半年後には子孫を残して亡骸となり、夏草が繁り、それもまた・・・。
 「お米と一体であったイナゴやバッタも、秋の終わりごろには卵を産んで親は死んでいきますのやけども、その卵がまた、春に孵化して、またまたお米と一緒に育ちますのやわ。草々、虫たちがお米と同じ命の巡りをしますのやわ。
 そのことによって、田圃はいつも、たくさんの命を育んで、たくさんの亡骸たちで豊饒なんです。だからお米も、健康に育ち続けるんですわ」
 だが、耕せば、せっかくの豊穣な亡骸の層をはぎ取ってしまう。後に残るのは、痩せた土だ。
 だから、たくさんの肥料が必要になり、農薬もまかねばならず・・・それは、地球環境に、さまざまな問題を招いてしまう。
 だが、自然農は、環境にも、他の命にも、一切の負担を掛けない。草も虫も、一切を敵としない。
 「昔はね、田植えが終わったらすぐ除草剤散布。そしたら、田圃は死の世界ですわ。もう、それが嫌で嫌で。ところが今は、いろんな草が繁ってる中に、米も生えてる。虫も命を営んでる。田圃に立つとね、心も身体も喜んでくるんです」

葛藤
 自然農は確信となった。だが、収入につながる収量には程遠く、政府に供出する米にも事欠く無収入の暮らしが、さらに、何年も続くのである。
 が、それ以上に困難を極めたのは、自然農に反対する母親との葛藤であった。
 「母親は、村の人たちと違うことをする孤独感に耐えられんのですわ。お前の息子、頭おかしくなった、気がふれたとか言われるしね。それでだんだん村の中に出て行かなくなって、ノイローゼになって、やめてくれ、頼むから草刈ってくれって言い続けて。
 ようやくお米もとれるようになってきたのに、『お米が育っても育たんでもええから、村の人と同じことしてくれ』言いますのや。 
 そのうちに、極度に衰弱してきて、とうとう死ぬ準備始めたんです。
 毎日、雨戸閉ざして、仏壇に向かって鉦たたいて、
 『お前に、財産全部食い潰された。ご先祖様に申し訳ないから、私はもう死んでしまう』って。
 ある時は、部屋にいないから探したら、ゴエモン風呂の暗ーい風呂場のすみっこで、硬直して引っ繰り返ってますのやわ。痙攣してますのや。
 これには途方に暮れたけど、それでも、布団に寝かして、田圃に行ったんですよ。死ぬかも分からないけどね、それでもなおかつ田圃に行ったんですよ。
 これで死ぬかどうかは、母親の問題だって。田圃にいくのは僕の人生ですよ。これはもうはっきりしてるんです。二十年以上も農薬で苦しんできて、ようやくこの道見付けたんですから、自分の納得のいくことをしていかないと、救われないんですね、僕は。
 そうこうするうちに十年がたって、それでもまったく無収入で、でも僕は相変わらず一歩も譲らなかった。けれどもそれでいて母親も死ななかったんです」

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命の法則
 そして瞬く間の二十三年が過ぎ・・・川口さんは今、自然農の指導に、全国を飛び回わっている。
 ビジネスマン、定年退職後の人、受験生・・・病み、行き詰り、さまざな問題意識を抱えた人たちが、
 「一気に解決は出来なくても、答えにつながる生き方をしようとされて」
 吸い寄せられるように集まってくる。
 川口さんは、自然農のことしか話さず、参加者はひたすら、それを体験するのみ。しかし・・・。
 「体験するうちに、ご自分の力で、ご自分の命の変革をして帰られますのやね。そういう方たち見てますとね、お米も草々も小動物も人間も、命は命自ら、命にとって一番いい方向を求めていて、それに任せて見守っておりさえすればいいんだと、つくづく嬉しくなりますのやわ」

和解
 四月某日。田起こしの終わった田園地帯を散策するうち、私は不意に、川口さんのお母さんに電話をしたくなった。
 「今になって、あの子のこと本に書いてあるの読んでたら、私のことも心配してくれてたんやな、そやのに、あの頃は人から何か言われても、あの子のために、あんじょうよう言うたらんとな、かわいそうなことしたと思うてな。
 自分かて、どういうふうになるか分からへんかったやろうに、私が悪かった。 そやけど、ほんまにしっかり頑張って、ようやり通さはったな思うて、嬉しいことですわ」
 何のたくらみもない、優しいやさしい・・・川口さんの田圃の匂いのする響き・・・そこには、美しい時の恵みがあった。


posted by 川竹文夫 at 16:14| 月刊『いのちの田圃(たんぼ)』

2017年02月26日

一徹の人 第4回


宮澤賢治一人語り

林 洋子さん
〜『いのちの田圃(たんぼ)』2001年4月号(第4号)より〜


さまざまな分野で一筋の道を貫く人たち。崇高にして爽快なその人生の軌跡を、川竹が心からの尊敬を込めてレポートする。
第4回は、宮澤賢治の童話や詩の一人語りを続ける林洋子さん。
「あなたの住んでいるところへ『賢治の世界』を出前します。舞台もマイクもいりません」


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一人語り
 やわらかい指先が、タンバリンを小刻みに打つとき、かすかな強弱をともなったその音は、悲しみを抱いて夜空を虚しく飛び回る、よだかの羽の音。
 手のひらが激しく打ち据える一瞬、その音は、命の限りを尽くして天空に駆け上がる、よだかの、胸掻きむしる激情をすくい取っていた。
 二つの音を縫って、きっぱりと、あるいはしめやかに語りの声が響いてくる。
 声の主は、林洋子さん。黒いTシャツに黒ズボン、片手にタンバリンを携えて、一人、立つ。
 二十一年間、全国千三百ヵ所。お寺、神社、かやぶきの農家、そば屋の二階。演じ手と観客が手の届く距離を大切に、語りの出前を続けてきた。
 この日の演目は、『よだかの星』。
 満員の観客のどの目も、林さんを凝視している。いや、見ているのは、語りに導かれて豊かに膨らんだ、一人一人の『よだかの星』なのだろう。
 語りに引き寄せられるのか、観客の固まりが、じりじりっと迫り出して、林さんとの距離は、また少し、せばまった。
 
お前は何者か
 「これこれのために、こう準備しなければならないというのではなしにね、ふいに出会ったことが、後で、非常な重さを持ってつながってくる・・・人生ってそうじゃないですか」
 春の風が、開け放ったマンションの窓辺に、都会のかすかな騒音を運んでくる。その響きに乗せて、林さんはこの二十一年の 命の出会い を語り始めた。
 始まりは一九七一年、水俣市民会館の、あの一声。 
 当時、新劇の俳優であった林さんは、『東京水俣病を告発する会』のメンバーとして水俣病患者を演じていた。演目は石牟礼道子原作『苦海浄土』である。
 「観客のほとんどは患者とその家族で、その患者さんに扮した私たちが、舞台の上から、苦しげにうなり始めたんですよ。ウーウーって。そしたら、客席の中から、ウゥウー、ウゥウーって、もの凄い おらび声 が聞こえてくるんです」
 声の主は、友子ちゃんという胎児性水俣病患者。つい先ほど、楽屋で頭を撫でて話し掛けたばかりだった。首は死んだ鶏のようにガクンと垂れたまま。手は体に引き付けられ、曲がって動かず、口もきけない。
 「でも・・・」と、そのとき母親が言っていた。
 「でも、友子は何かを感じたとき、おらぶんですよ」
 彼女が何を感じていたのか、今もって分からない。 しかし・・・。
 「友子ちゃんのおらび声はね、『お前は何だ』『お前は何者だ』って、私の心を刺し貫いたんです。私は患者じゃない。演技しているだけ。『私は何者なんだ、俳優って何なんだ』って。そしたら、パタリと」
 一切の芝居が、出来なくなった。

生身で向き合う
 そして数年。林さんは、インドにいた。観客と一緒に、十日間も寝泊りして歌い続ける、大道芸人バウルたちのテントの中にいた。
 「アクタラって楽器を手に持って、打楽器のようなカマックもテケテケテケテケって、凄い音出して。足に鈴巻いていて、突然ぴょーんと飛び上がったり、かたっぽでは、横笛ヒューって吹いて。子供がシンバルをシャンシャンシャン叩いて合わせたり。すっばらしいんです。何とも凄い。バウルたちの目を見てると、もう、どこまででもついて行きたいって気になるわけね。それでね、ほら」
 雑誌を広げると、もどかしげに、その写真を示す。
 「境目がないんですよ、やる人と聞く人の、ね。くっつきそう。生身で向き合ってるのよ。そのとき私は、ああ、もう一回役者としてやるんだったら、こういう風にやりたい、こうしかやりたくないって」

生まれいずるもの
 一九七九年、帰国。
 しかしそこには、人間の匂いが感じられなかった。 
 「ここで生きられるかなー、インドに永住しようかなーって」
 悶々とした二ヵ月ほどが過ぎたそんなある日、何気ない情景が心をとらえる。 乗っていたバスが、信号で停まったときだった。
 突然の通り雨に、窓外をふと見ると・・・驚いた母子が、横断歩道を小走りに駈け、向かいからは中年の男が、ハンカチをヒョイと頭に、すれ違っていく。
 信号が変わり、バスは動きだす。何事もない情景は、そのまま一枚の小さな絵として終わりそうだった。 
 が、林さんの目は何故か、なおも、母子を追う。
 「女の子がお母さんの袖をチョンチョンチョンと引っ張ってね、何かを言ってるのね。お母さんがそれを優しくヒョッと見下ろして、まるでね、雨に濡れて喜んでいるようなね、凄くやわらかーい姿でね」
 木々の緑が、濡れてふるえて光っていた。
 「あー、これが日本の春の雨なんだなー、もし、インドに永住したら、どうしようもなく、この日本の雨を思い出すなーって。
 そう思ったときにね、その瞬間に・・・理屈ではどうにも説明出来ないんですが、ピカッと、宮澤賢治が飛び込んできたんです。そうだっ、私は俳優だ。賢治さんを語って、あの母さんに会いに行こう、あの女の子に会いに行こう、あのおじさんに、こっちから、会いに行こうって」
 少女のおらび声、バウルのテント、母と子、そして宮澤賢治・・・水俣のあの日から八年、今、すべてが一本の糸につながり、美しい織物を紡いだのである。

支えあう命
 そして、さらに、二十二年が過ぎた。
 「お母さんも女の子も、どこかで元気にしてらっしゃると思うけれど、私という一人の人間が、こんなにも大きなものを与えられたということは、まったく夢にも思っていないでしょ。だけど私にとっては、かけがえのない命の仕草だった。人間って、生きているだけで、誰でも、それだけの凄いものを持っている、一人一人の中に、すでに持っているのよね」
 公演ではいつも、会場の設営から、照明係、司会進行のすべてを、依頼した人たちが自らの手で行なう。
 「全部当日の三時間で教えるから、私も必死。お客さんも決して逃げない。だから初対面なのに、終わるとね、もうほんっとに離れたくない、ずっとここにいたいって思う。照明係で全国ついて歩きたいって言う人もいるんです。つながりあって、支えあって・・・それが命」
 そんな命が、今、三十万人を越えた。
                                文/川竹文夫

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posted by 川竹文夫 at 10:28| 月刊『いのちの田圃(たんぼ)』

2017年02月04日

一徹の人〈第3回〉 新野まりあさん


世界一の人工乳房を制作

新野まりあさん
〜『いのちの田圃(たんぼ)』2001年3月号(第3号)より〜


さまざまな分野で一筋の道を貫く人たち。崇高にして爽快なその人生の軌跡を、川竹が心からの尊敬を込めてレポートする。
 第三回は、乳ガン手術をバネに、まったくの素人から世界一の人工乳房制作者となった、新野まりあさん。その歩みを知った人は、この人の前で、「不可能」という言葉を使えなくなるだろう。

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乳房喪失
 両手が黒いセーターをつかむ。白い肌が見える。
 私は一瞬のちの光景を予想してたじろぎ、が、そのときはすでに、胸の赤い傷痕が視野を占領していた。
 それは、今まさにセーターをたくし上げた右腕のつけ根から肋骨の下まで、扁平な胸を縦に貫いている。 私はいたたまれず、視線をその人物の顔に移す。と、そこには、新野まりあさんの、ゆったりとした微笑みがあった。
 「私はね、どこででもホイッて見せるの。ショウウィンドウですからね、私の胸は。患者さんに、実際に人工乳房を着けたり外したりして見せてあげるんです。シャワーを浴びたりね」
 新野さんは、間違いなく世界一精巧な、人工乳房の開発者である。
 それは、着けているのだが、胸から生えているとしか見えない。湯につかると生身の体と同じ色に染まる。

 その十三年前、新野さんは、ハルステッド法による乳ガン手術を受ける。
 「もうほんっとに無知で、知識がないからなーんにも質問出来なくて」
 だが、麻酔から覚めると、すべてを失っていた。
 「胸は真っ平らで・・・」
 その上、右腕は肘から九十度に曲がったまま、動かせない。この先には、腕を固まらせないための辛いリハビリが待っている・・・はずだった。
 だが、ここからすでに、新野さんは違っていた。
 すし大学オーナー、日本フラダンス協会代表という二つの経験が、存分に発揮されるのである。
 「生のフィレ肉を寿司ネタにしたことがあって、そのとき、大きく見せるため生肉をビールビンで叩くんですが、いくらでも延びたんですよ。で、生肉は延びるんだと、それ思い出して、傷口が開かないように左手でグッとつかんで、右腕をこうやって・・・」
 フラダンス独特の、あの波のような腕の動きを、リズムに乗せて繰り返した。 そして一週間後の抜糸の日。医師は、リハビリの開始をおごそかに告げる。
 「滑車で腕を吊して」
 新野さんは笑った。
 「なーに言ってんですか、先生。これもんですよ」
 ピクリとも動かないはずの腕を、背泳のようにグルグルグルグル、自由自在に回してみせたのである。
 「新野さん、これ使えますよ」
 驚きのあまり、医師は頓狂な声を上げて、讃えた。

ないなら、作る
 そんなある日のこと。人工乳房を売っている店を、医師にたずねた。すると、
 「ブラジャーに靴下でも、まるめて入れとけばいいんじゃないの」
 あって当然のものが、実は、なくて当然であることを、その返事は、冷酷に示していた。
 「悔しさと、悲しさと、ジワジワくる怒りと。ショックが日ごとに深まってくるんですよ」
 しかし・・・。
 「待てよと。どこにもないんだったら、作るしかないな。誰もやっていないんだったら、作れば唯一の生産者になれるなと。その世界のパイオニアになれるんじゃないか。もしかしたら、神様は人生最高のチャンスをくれたのかも知れないなと。この胸を研究材料にして、ここのこの胸を研究室にしたら、私には出来ると思ってね」
 早速、ベッドの上で試作が始まった。シャツ、靴下、洗車用のスポンジ。思いつくかぎりの物を集めては、切り刻み、またあるときはミカンの網の袋に詰め、メリヤスのシャツの裏に縫い付け・・・こうして初めてのパッドが出来たのである。
 退院後、新野さんはそのパッドを胸に、待ちかねたフラダンスのステージに復帰する。
 ところが、胸ぐりの大きい衣裳では、どうしてもパッドを縫い付けたメリヤスのシャツが隠れない。
 「だったら見せればいいんじゃないのと。それで、スパンコールや色んなフリフリをつけて思い切り派手やかにしてね」
 それを激賞した生徒に、新野さんは、種明かしのように、パッドを取り出してみせた。
 「そしたら・・・先生、これ凄い。必要な人、いっぱいいますよ、みんな泣いていますよって」
 インタヴューが進むにつれ、私の胸には焦燥感がふくらんでいた。このまま、
 『開発物語』で終わってはいけない。私には知りたいことがある。唐突を承知で、それを口にしてみた。
 「胸をなくされたお気持ちには、どういう風に折り合いをつけたんですか」
 新野さんが、この日、初めて小さく目を伏せた。
 「乳房失ってしまったら、気持ちの折り合いなんかつかないです、大抵の人は。男に対しての女でなくなってしまう悲しみは、口に出せない。その喪失感に打ちひしがれて、暗い方へ、暗い方へ思考を引っ張るんです。みんなも、私も」
 新野さんの声に、秋の雨のような淋しさが宿った。
 だが、それも束の間。
 「それでね、私、『天使の卵』っていうストーリーを作ったんです。夢をね。嘘でもいいから、美しい理由がほしいんです。自分だけが何故オッパイを失ったのかという理由ね。神様はいいオッパイだけを選んで、天使に狩りをさせるんです。そのオッパイどうしているかというと、闇に葬られた子供たちが集められている園があって、そこで『お母さんのオッパイだよ』って、集めた、いいオッパイをあげてるんだって」

乳房創造
 ヨーロッパ、ブラジル、アメリカ・・・人工乳房創造に向けて、新野さんは駆け巡った。あるときは、ハリウッドの映画用特殊メイクの技術に目を付ける。が、見本の人工人体は一体八千万円、技術を学ぶだけでも二千万円という。諦めるしかなかった。
 医療用人工人体を開発した人を訪ね、いきなり叱られたこともある。科学者でも医者でもない素人がやるべきことではない。乳房がなくても胸を張って生きられるよう、カウンセラーになれと言うのだ。
 だが、新野さんは食い下がる。 「あなたは男だから分からない。まず体を修復することが先」だと。
 根負けした彼は自ら試みて失敗した人工乳房を見せる。それはシリコンで出来ていた。
 「これから先は私の仕事」
 直感した新野さんは、シリコンメーカーを探し、そのつてで、人体修復の世界的権威・イギリスのロバーツ博士に入門を果たす。
 医者以外は入門出来ないはずであったが、ここでも粘りでもぐり込んだ。
 だが、問題は費用。授業料一日六万円。しかも正式なコースは七年。その上、当然、渡航費、食費、ホテル代・・・。費用を工面しては出直し、なくなれば帰国、そしてまた稼いでイギリスへ・・・七年のコースを実質七ヵ月で終了した。
 そして今・・・。
 『緊急発表』と題されたマスコミ発表の文書には、こう記されている。
 『21世紀1月11日。この日を私は一生忘れないでしょう。幾多の困難な道のりの末に、神様はすばらしい贈り物を下さったのです。お知らせいたします。理想的な乳房がこの日完成したことを! それは呼吸するんです。むれない・汗もかかない・着けたまま、スポーツ・洗髪・水泳も大丈夫。ノーブラ勿論0K! 激しいSEXもできる。しかも、このオッパイは快感をも感じることができるのです』
 私は以前、新野さんがシリコンで作った最初の人工乳房を見たことがある。それは、古びたゴムの帽子のようなものにしか見えなかった。
 あれから約十年。数限りない改良が加えられたのだろう。今、手に取るそれは、まさにこの歓喜あふれる文章そのままであった。

困り事のまりあ
 だが、更に驚くべきことがある。新野さんは、新しいモデルが出来るたび、無料で新しいものに作り替えてあげているのだ。
 「いや、材料費の五万円はいただいているので、無料じゃないですよ」
 しかし、本来の料金は五十万円から二百万円なのだ。五万円では、考えるまでもなく大赤字。しかも、新しいモデルが出来たときこそ、リメイクで儲けるチャンスではないのか。
 「それをやると、私は商人になってしまうでしょ。赤字でも何でも、これは、私の患者としての使命なんですよ。全部、私が作り直しています」
 しかしそれでは、経営が成り立たなくはないのか。
 「何とかなりますよ、必ず。私は、貧乏学のプロフェッショナルですから、さあどうするってときには、ぱっと解決策が浮かぶんです。だから私ね、『困り事のまりあ』とか『とっさのまりあ』って呼ばれてるんですよ。一番いいのは、家賃を滞納することね。半年くらいほっておくと裁判になるでしょ、それであれこれやっていると結局一年くらいは居座っていられる。月十万の家賃としても、百二十万円は使えるんですよ、開発に」
 さも愉快そうに笑う。
 「私は患者さんが求めるものにたどり着くために、みなさんの体をお借りして研究しているようなものですよ。使命ですから、儲けられない。お金はいつもないです。ですけど、私はやって差し上げたいんです」
 私は確信する。
 マスコミ発表の文面に踊る新野さんのあの歓喜は、そっくりそのまま、胸を失った無数の患者さんの歓喜でもあることを。





posted by 川竹文夫 at 19:47| 月刊『いのちの田圃(たんぼ)』