昆虫と花、写実と詩情の絵本作家
熊田 千佳慕さん
〜『いのちの田圃(たんぼ)』2001年8月号(第8号)より〜
さまざまな分野で一筋の道を貫く人たち。崇高にして爽快なその人生の軌跡を、川竹が心からの尊敬を込めてレポートする。
今回は、フランスの人たちからも、プチファーブルと慕われる熊田千佳慕さん。作品を待ちわびるパリの自然史博物館からは、昆虫の標本が送られてくる。
どんなに目を凝らしても、私の眼に、 それ は、ついに見えなかった。
それ とは、小指半分ほどの細い筆先が、さらに尖ってすっと空中に消えていく・・・その最も先端の毛先わずかに、三本のこと。 だが、熊田千佳慕さんは、その三本を駆使して、愛すべき昆虫や花たちを描いてきたのだという。
戦後の半世紀、そして、九十歳の今も、肉眼で。
私は、信じられない思いで、制作途中の白い紙に眼を転じた。
すると、確かに それ が、ほんのわずかずつ、しかし、おびただしく行き来した、まぎれもない証拠を認めることが出来た。
かぼそいかぼそい、あるか無きかの、描線の重なりが、何かの昆虫の頭部を形づくっているのである。画面の大きさは四十三p×二十六p。なのに。
「一枚描くのに、四ヶ月はかかっちゃいますね」
朝の十時から深夜一時まで。まる一週間、毎日描き続けてなお・・・この日までに、親指の第一関節ほどしか、描けていない。
細密技法誕生
「神様が授けてくださったとしか、言いようがないですね、この細密技法は」
作品を覗き込む私の頭上に、自ら心に噛みしめるような声が降ってきた。
「新婚八日目に、横浜大空襲で着のみ着のまま、丸裸で焼け出されちゃって。この描き方になったのは、そのおかげなんです」
何故なら・・・。
「疎開した先の縁の下に、コッチコチに固まった使い残しの絵の具が捨ててあったんです。全部なくしてましたでしょう、絵の具も何も。だから大喜びで」
さっそくチューブを破り、指先にちょっと水をつけて溶いてみた。すると。
「いい色、出たんですよ。もうー、嬉しくて嬉しくてしょうがなくて」
ところが、あまりに古かったせいか、どうしてもごく少量しか溶けない。しかも、チューブの底に残ったわずかなものである。
「普通にさっとやると、一筆で、もう無くなっちゃう。残念でねえ」
だが・・・困り果て、考えあぐねた末に、ついに、ひらめくものがあった。
「あっ、てね。広い平らな面でも、ほそーい線がいっぱい集まって出来てるんだって。あっ、そうかっと。それじゃ筆の先に、ちょこっとだけ絵の具つけて、細い線を重ねていけば、いつかは面になるだろうと」
独特の細密描法は、こうして生まれたのである。
不思議な伏線もあった。 熊田さんは当時、商業デザイナーとして活躍していたが、焼け出されて三日後。絵の師匠が、画材一式を提供してくれるという。
「いつも、先生の言うことなら何でも素直に聞くのに、その時に限って、どういうわけだか、今でも、自分でも、まったく分からないんですけど、即座にね、絵の具も何もいりませんと」
断ってしまった。
絵の具がなければ、たちまち困るはずだが。
「そうなんだけどね、そんなこと、頭にちらっとも浮かばなかったですね。何だか知らないけど、いらないって、きっぱり」
もしあの時、絵の具をもらっていれば・・・。
「当然、今の技法はないですね。不自由しなかったら、普通に描いていた」
だから、この技法は、神様から授かったものなのだと、繰り返すのである。
神様のパズル
「神様はいっつもね、僕にその時どきにパズルを用意してくださってね、それ、解いてきただけ。だから僕の人生は、神様のシナリオどおり」
熱烈なファンの会を持ち、熊田記念館建設が計画され、ファーブルの故国フランスからは、『プチファーブル』と敬愛をこめて呼ばれる。その作品と九十年のすべてが「神様のパズル」のおかげだと笑う。
生れつきの病弱。虫や花を眺めるのが唯一の遊びだったこと。
そんな彼に、医師であった父親が、当時では珍しかった『ファーブル昆虫記』を語って聞かせたこと。
幼稚園の頃、藤棚にとまったクマンバチの、黄色に輝く背中の毛に触れようと、何度も何度も飛び上がったことがあった。
「ようやく触れた瞬間、ああ、虫は生きてるんだと、びりっと感じた」
一部始終を見守っていた園長が優しくほめ、「どんどん虫たちと遊びなさい」と励ましてくれたこと。
そして十八歳。気がつけば、大人になっても決して、酒も煙草もやるまいと決心していたこと。
「将来は、小さい人のために、虫や花、描いてあげようと。そのために、体だけでも、ピュアに、清らかにしておきたいでしょ」
照れたように頭を掻く。と、何かを思い出したらしい。急に真顔に戻った。
「焼け出されて、先生が画材一式下さるって時に」
絵の具だけではなく、
「どうしてか、消しゴムもいらないって言っちゃったんですね。それで、6Bの鉛筆一本だけいただいて」
本当に不思議だと、私も思う。消しゴムくらい、わざわざ断るほどのことでもない気がするが・・・。
「そうでしょう。でね、消しゴムがないから、消せないんですよ。ちょっとした線一本でも。それで、虫を描くんでも、その場ではスケッチしないで、徹底的に見て、見つめて、見極めて、おもしろい姿を記憶に焼き付けて、家に帰ってから、決定的な線を引くようになっちゃったんです」
そして、敗戦間もなく、
「赤、青、黄のゴッテゴッテの原色ばかりの」粗悪な絵本が出回ったこと。
「それ見たとたん、たまらなくなっちゃって。こんなもの小さい人に見せてはいけない。自分が描かなきゃいけないと思って、女房に一言も相談せずに」
勤めていたデザイン工房を、突然、辞職。絵本作家になったという。
「僕の人生は、そういうことの積み重ね。みんな、神様が用意してくれた」
こともなげに笑う。
虫は私
天を突き破る巨木とも見えるのは、野アザミ。その下には、ラバの糞が、残照に輝いて黄金色の山・・・ どこまでも透明な大気に羽音を響かせて、今、熊田さんが最も愛する、センチコガネの、にぎやかな夕食が始まったばかり。
〈神さまはわたしたちセンチコガネに、地上のふんをかたづけるようにいわれました。
それなのに人間たちは、わたしたちをくそ虫といって馬鹿にしたり、汚い虫といって毛嫌いしています。 わたしたちはわたしたちのために生きているのです。幸せな生活です〉
絵本『ファーブル昆虫記の虫たち』にそう記す時、熊田さんは、すでに一匹の虫である。
「汚い仕事でも、一生懸命、力一杯働くことの出来る天命をいただいてるのだから、幸せなんですね。黒い体も、光が当たると、青や緑に光ってすごくきれい。汚い仕事だから、神様がきれいな服を着せてくれたんです。思いやりですよ」
遥か先には、南仏プロバンス地方特有の乾燥した大地が描かれ、それは、土地の人たちが、「プチファーブルは、絶対、ここに来たことがあるはず」と絶賛するほど。
だが熊田さんは、写真すら見たことがない。
「ファーブルの昆虫記読んでるでしょ、何度も何度も。夢に出てくるんです。石ころの多いところだぞ、とか。僕自身、不思議」
『バラのゆりかご』と題された作品には、ピンクと白の巨大なバラ。
目を凝らせば、その花びらの表面は、他のどんな画家たちの絵とも違う。
「私も、ずっとツルツルだと思ってた。でも、よく見ると縮緬のシボみたいに、点をいっぱい寄せたような細かい細かい凹凸がいっぱい。ザラザラ」
そのすべてを、撫でるように、指先に愛でるように、徹底的に描き込んだ。
「八十歳にもなると、残りの時間が少ない。だから、この花描くのは最後と思って見るんですね。一期一会。そしたらどんどん眼が良くなって、見えてきたんです。見えると描かなきゃすまないから、余計手間がかかっちゃって・・・」
熊田さんの願いは、ファーブルの虫たちを百枚描くこと。だが、完成したのは、現在三十二枚。一年三枚と計算すると・・・。
シャイな人生
帰りの地下鉄に揺られながら、私は、熊田さんが語りたがらなかった、ある断片を、拾い集めていた。
七十歳になるまでは、まったくの無名。「暗ーいトンネルの中」。なのに、一度も他の仕事で稼ごうとはせず、奥さんにも固く禁じてきた。
売れば楽になるのに、一枚も絵を売ろうとはせず、パリのユネスコ本部が、
「いくらでも好きな値段を付けてくれ」と言ってきてさえ、ついに拒否。
「この絵は、神様から授かったものだから」
これが、ようやく話してくれた、すべてだった。
そう、熊田さんは明らかに、苦労話を避けていた。 確かに、芸術家は作品がすべて。だが、シャイでお洒落な熊田さんのこと。それ以上に照れ臭かったに違いない。
何しろ、毎日のことなのに、近所の銭湯と、虫のいる原っぱに出掛けるときさえ、下着からすべて着替えねば気が済まず、その下着には、毎晩必ず、自らアイロンをかけ・・・「いくつになっても颯爽として見せたいから」と、ひそかに、
『エスカレーターの、さり気ない乗り降りの姿』なるものを練習しているくらいなのだから。
自宅は今も、元農家の納屋。石油コンロで煮炊きをし、奥さんの衣類一切と熊田さんの下着は、足踏みミシンで縫っているという。 なのに、いや、だからこそと言うべきか。取材の終わりに、二人が顔見合わせたあの笑顔・・・。
それは、人生の喜怒哀楽に洗われて、糊の効いた浴衣さながら。実にさっぱりと香っていた。
その潔さ・・・。