2013年03月07日

第一章 「傷」 その1


爆心地被爆

 私の隣の座席には、一人の初老の紳士が深々と腰を沈めている。もう随分時間がたつというのに、私の連れのその人は、いつもの快活さに似合わず、まだじっと車窓の外に目を転じたままである。彼の名前は大塚宗元さん(63歳)。兵庫県中小企業団体連絡会会長、全国マッチ工業会理事長等、十指に余る肩書を持ち、関西実業界の重鎮の一人として活躍を続けている。神戸市に住む彼は、毎年、新幹線で40回以上も東京との間を往復するという忙しさだ。しかし、今日乗った新幹線は、彼にとって十数年ぶりという広島に向かっている。そこで私たちのTV番組のために、40年以上前の出来事を話そうとしているのである。そのことが、彼の気を重く澱ませているに違いなかった。
 彼は被爆者である。それも特別の被爆者である。被爆という、測り難い不幸の前には、特別も普通もありはしないのだが、それでもなお彼の被爆体験には、そう言わざるを得ないものがある。
 昭和20年8月6日、午前8時15分。広島に人類史上初の原爆が投下された。その時、原爆直下の地点から半径500メートル圏内、最も被害が激烈であったそこには、推定2万1,000人の人々が居た。そして、その2万1,000人のことごとくが死に絶えた……。少なくとも広島の人々には、そう信じられてきた。しかし、事実は奇跡的に助かった幾人かの生存者が居た。その一人が大塚宗元さんなのである。
 原爆炸裂の瞬間、500メートル圏内には7台の市内電車が走っていた。その1台に、軍服に身を固めた大塚さんが乗っていた。
 「それが猛烈に強烈な光でしたから、ピカーッと。それで私はこのまま、ダーッと、こう伏せたんです。床へ伏せた」
 広島に着いた大塚さんは、覚悟が決まったのか、堰を切ったように語り始めた。私たちは、大塚さんに少しでも当時の状況を詳しく思い出していただくため、被爆のときに彼が乗っていた電車と全く同じ型のものを用意し、その中で話をうかがうことにしていた。果して、大塚さんは電車に入るなり、その時、自分の座っていた位置を確認するのももどかしそうに、大きな身ぶり手ぶりをまじえ、実際に床に身を伏せる動作をする程、話に熱中した。
 「ピカーッと光って、ほいで私はパアーッと伏せて、演習で身を伏せる訓練してるから、こう剣をおさえて、パッと身を伏せたそのすぐあと、ボッと言うね、ちょうど油のタンクに、ガソリンのタンクに、一遍に火を点けたらヴォッというでしょ、ああいう音です。そいで熱風が周りからヴォーッときます。物凄い熱風がくるのを感じましたけど私はもう伏せてました。それで、そのあと意識をちょっと失っているんです。気がついたら真暗。それで真暗な中で、死ぬ!と思ったんです。死ぬなあーっと思って、それで、生きよう!と思ったんです」
 当時23歳の大塚さんは、船舶砲兵部隊の教官兼小隊長として広島市宇品(うじな)に駐屯、8月6日のその日から、幹部候補生たちに講義をする予定だった。1週間前、大本営で聞かされたアメリカ軍上陸に備えた最新情報を伝えるためである。
 電車乗り場には行列ができていた。満員電車を1台見送り、次の電車に乗ったが、これもかなり混み合っていた。真夏である。車内は白シャツ、半袖姿の乗客で一杯だった。
 「そうそう、みんなそんなでしたよ」
 インタビューの最中、上着を脱いで半袖になった私を見て、大塚さんはギクリとした様に顔色を変えた。
 電車は広島市の中心部、500メートル圏内に向かって北上。やがて、大塚さんにも馴染みの、白(しら)神社(かみしゃ)の森が見えてきた。彼は横目で、はっきりとそれを確認、その瞬間、原爆は炸裂したのである。
 「私は砲兵隊の兵隊ですからね。砲弾なり爆弾が落ちたらね、ドッと伏せる。まず伏せるっていう癖がついていた。訓練がそうさせたんでしょう。立ってたら、少なくとも窓からパァーッと入ってくる熱風を浴びてたと思う。それからは救われた。
 でね、なんかこう、取り残されたと思って、わしは包囲されていると思って、血路を開くんだと……。パァッと向こうへ行きまして、その、走ってる電車から飛び降りたんです。その瞬間にグウッーっと地面に足が吸いついちまったんですよ。“やられたっ”と思いました。へんな鉄の棒切れみたいなのが入りましてね、この辺に出てるんですよ。実に巧みに腸の間を抜けてるんです。それでフッと向こうの方見ましたら、電車がそのまま走ってたんですが、この車体がこのまま燃え上がりました。ワァーッと。あのビャッコウ、真白い光で全体がヴォーッと燃え上がったんですよ。で、燃え上がったまんま走ったんです。周りは闇ですから、真暗闇の中でこの電車だけ白く燃えて走った。それで、その時どうしたことか、“あっ!地獄の火の車だっ”と、こう思ったんですよ」
 電車は狂ったように数十メートルを走り、止まった。日中だというのに、闇はまだ続いていた。
「暗くて何も見えんのだから、じいっと立ってました。そしたら周りの地面の下の方から、だんだんね、煤を一面に散りばめたようなものが、下からこう上がってくるんです。下からだんだん見えてくる。見えてきたら、もうグシャグシャなんですから。周りが今までの周りじゃないですから。白い馬がプウーと膨れあがって横になっていましたよ。それで、今まであった土地が、街がないんです。街があって建物があったでしょう。それが無いんです……」
 広島は一瞬にして壊滅していた。それは、大塚さんの、そして全被爆者の、原爆との長い闘いの、始まりを告げる光景であった。
 「いやだねえ、思い出したくないよ……。私なんか語る資格はないですよ……」
 それまで、冒険物語でも話す様に熱を込め、自在に語っていた大塚さんは、突然そう言うと、フッと黙りこくってしまった。その顔には、広島への車中ずっと続けていたのと同じ表情が浮かんでいる。大塚さんはまた、あの事を思い出しているらしかった。



posted by 川竹文夫 at 17:00| ヒロシマ爆心地

目次


目次

第1章 傷
  爆心地被爆 沈黙
第2章 爆心地
 〜死の500メートル圏内〜
  原爆投下 昭和20年、広島  広島市消滅  死の同心円
  熱線地獄――1.2キロメートル圏内へ  爆風の衝撃――730メートル圏内へ  
死の放射線――500メートル圏内へ
第3章 生存者発見
  湯崎資料  爆心地復元運動  解明への手がかり  調査票は語る
  死屍累々  化石  遺体確認  SD――ショートディスタンス
第4章 語りはじめた人たち
  沈黙の40年  被爆体験はフィクション?  ピカもドンもない
  竹田さんの40年  波瀾万丈でない人
第5章 空白地帯
  路上被爆  ファイヤーボール直下  地獄からの生還  闇の爆心地
  黒い雨  徳清さんの戦後  体内に残るガラス片  被災者の群れ
  火事嵐  極限下の人々
第6章 僥倖
  私は何故助かったのか  生存者たちはここに居た  地下室
  普段と違う行動  コンクリートの建物の中でも……  僥倖
第7章 生と死のコントラスト
  検証――日本銀行  くいちがう証言  配置図復元  物理学者庄野直美教授
  熱線、爆風、放射線  再現――日銀ビル3階  40年前  熱線照射
  ガンマ線照射  奇跡を科学する
第8章 突然の死
  即日死90パーセント  急性障害  無力だった医療  ドクダミ茶
  ナスの塩もみ  一升瓶のお茶  自家輸血
第9章 影
  癌への恐怖  鎮痛剤  不安の日々  白血球  豪語
第10章 新たな悲劇
  57人目の生存者  続く悲劇  髪  女学生たちの戦後  乳癌
第11章 死者たちの証言
  8月6日、広島電信局  『電信日誌』の14人  表彰状  2つのカツラ
  16歳で被爆、42歳で死亡  死んだ日、生まれかわった日
第12章  被爆の刻印
  後障害との闘い  400本の細胞カプセル  染色体異常の示すもの
  染色体異常率と被爆線量  染色体異常と発癌  発癌2段階説
  近距離被爆者の骨髄細胞  癌遺伝子をつかまえる  染色体異常の遺伝的影響
第13章 癒されぬもの
  一輪の花  家族への思い  一家離散  ある離婚  心のケロイド
  見捨てられた人々  鎮魂
終章

参考文献

付章
  日銀広島支店の被爆者〜奇跡の生還の科学的分析〈庄野直美〉
  広島原爆のエネルギー  日銀広島支店の被爆位置  被害の時間的経過
  爆風による被害  中性子による被害  熱線による被害 ガンマ線による被害
  まとめ
  参考文献

  近距離被爆者と染色体異常〜現在も残る原爆の爪痕〈鎌田七男〉

   原爆後障害の現況
  原子爆弾の身体的後障害  放射線と白血病発症率  
被爆者白血病の発生、3つの特徴  組織別危険度  現在何が一番問題か

   染色体異常の意味
  染色体異常は直接的証拠  染色体異常の刻印  放射線被曝の程度と染色体異常率
  被爆による染色体異常と他の要因による異常  染色体異常は全組織で起こっている

   染色体異常と癌との関連
  被爆者の染色体異常  癌細胞と染色体異常  染色体異常分布の不均一性
  染色体異常と癌化の関連
  参考文献

あとがき〈NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム・川竹文夫〉



posted by 川竹文夫 at 16:51| ヒロシマ爆心地

2013年02月06日

「はじめに」と「あとがき」

 
この本が生まれる経緯を知っていただくために、
第一回の今日は「はじめに」と「あとがき」を
お読みください。

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はじめに

 NHK広島局は、世界で初めての被爆放送局としての宿命を負っている。
この四十年の間、一貫して原子爆弾による惨禍を明らかにし、二度とこうした悲惨な出来事が起こらないようにとの願いを込めて、原爆ドキュメンタリーと呼ばれる一連の番組を制作し続けてきた。その数は、テレビ、ラジオをあわせて八百本以上にのぼる。
 昭和六十年八月六日。被曝四十年にあたるこの日、私たちはそうした原爆ドキュメンタリーの集大成ともするべく、NHK特集『爆心地・生と死の記録』を放映した。
 爆心地とは、原爆の爆発点直下の地点から半径五百メートル圏内を言う。爆風、熱線、放射線など原爆のもたらした打撃が最も苛烈であった。
 昭和二十年八月六日、午前八時十五分、原爆炸裂の瞬間、そこには推定二万一千人の人々がいた。そして彼らはすべて死に絶えた。一般には、こう信じられてきた。しかし私たちの調査した事実によれば、四十年後の今も、五十七人の生存者がいたのである。この発見の始まりは、昭和四十三年に遡る。この年の春、NHK広島局と広島大学原爆放射能医学研究所(略称 原医研)は、爆心地にあった街並みを地図に復元するという、共通の目的の下に、共同して精力的な調査、キャンペーン活動を展開した。
 遺族や知人、隣人を探しあて、情報を得る。あるいは、回覧板の順番を示すメモや隣組の名簿など、片々たる資料を発掘しては、それらをもとに、被爆前、どこに、どの様な家族が住み、誰が暮らしていたのかを、一つひとつ明らかにしていったのである。
 以来、その調査活動は、一旦、復元地図が完成した後も、NHKと原医研の双方において独自に続けられてきた。
 五十七人の生存者は、両者のその様な長年の蓄積の上に、昨年二月以降、私たちNHK広島局・原爆プロジェクト・チームが、更に新しい取材を加えた結果、初めて明らかになったのである。
 先の番組は、そしてこの本は、全国に散らばる爆心地生存者を一人ひとり訪ね歩き、これまで決して語られることのなかった証言を掘り起こすことから出発した。
 白血病、肺癌、乳癌等々、原爆放射能による様々な後障害との闘い、そして底知れぬ不安。これが彼らの語られざる四十年間であった。一方、不幸にも生命を奪われてしまった二万人以上の人たちは、いつ、どこで、どの様にして死なねばならなかったのか・・・。
 この本は、これまで殆どその詳細をしられることのなかった爆心地で、一体どの様な悲劇が起こり、そして四十年後の今なお続いているかを、新事実の発掘をもとに、科学的かつ総合的に解明しようとしたものである。
 
今年四月二十六日、ソ連のチェルノブイリで起きた原発事故は、人々に放射線の恐怖を改めて印象づけた。既に三十人近くの人命が奪われ、放射能を浴びた生存者たちは、今後、三十年、四十年の長期にわたって後障害が心配されるという。
 広島の爆心地の人々、そして全被爆者は、まさにこの恐るべき事実の中を四十年間生き抜いてきたのである。
 原爆は昔話ではない。被爆四十年の節目にたち、私たちは、この本の中に、核の時代への大きな警鐘を読みとっていただけることを切に願っている。
 
   昭和六十一年六月二十三日
        NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム



あとがき

 被爆者の証言は、かけがえのない貴重なものである。このことに異論はない。しかし……と私は首を傾げる。その貴重な証言が、これまでの映像や活字の世界で充分に活かし切れていただろうかと。例えば、これまでそうしたものの受け手でもあった私自身にとってはどうであったか……。
 被爆者の証言を初めてテレビで見たときはショックを受けた。残酷で無惨だと思った。しかし、いくつか見ているうちに、ある物足らなさを感じ始めた。証言者が力を込めて語ろうとすればするほど、ただ、ある種の悲惨な気分だけが印象に誇り、さて、証言のディテールをどうつなぎ合わせてみても、戦後生まれの私には、原爆の惨禍の全体はとても理解し難く、証言の背景すらも知り得なかったのである。それぞれの証言は孤立したまま特異な体験として終わり、ついにトータルに何かを形づくるということがない。いったい広島で何が起こり、どの様にして人々は殺され、生存者は、何故、今なお苦しまねばならないのか、その全体像が受け手の私には見えにくかったのである。
 私自身の鈍感と、想像力の欠如とを棚に上げて言うなら、そこでの証言の提示の仕方に一つの限界があったのかも知れない。証言が貴重であるという、その自明性に寄りかかって、証言を読みほどき、整理をし、更にはその背景を明らかにする努力が不足していたようにも思える。
 被爆者の証言は貴重である。しかし……。
 今回、この本をまとめるにあたって、私たちが自らに課したのは、このしかし≠ノ対する、何らかの回答を示すことであった。そのため、爆心地被爆者の証言を柱にしながらも、彼らの生死を分けたもののメカニズムを原子物理学の視点から解明し、また、彼らを四〇年後の今なお苛み続けるものの正体を、最新の医学、分子生物学の立場からつきとめようとした。この試みが、これまであまり原爆に関心のなかった人たち、なかんずくそのような若い人たちにとって有効であれば幸いである。
 本書は全体の三分の二を川竹が書き、残り三分の一を柳田昌賢、遠藤絢一、福島昭、柏木敦子の四人が分担して執筆、それを更に川竹が全面的に書き改めた。従って最終的な文責はすべて私にある。
 取材にあたっては、広島大学原医研を始め、各研究機関の方々に本書の基礎を成す実験データや情報を提供していただいた。巻末に名を掲げて感謝を表したい。また、二年も前から終始、執筆を励ましてくれた編集部の道川文夫氏、向坂好生氏にもお礼を申し上げる。
 最後に、語ることの困難と苦痛を乗り越えて、長時間のインタビューに応じて下さった五七人の生存者の方々、また多くの遺族の方々に、心からお礼を申し上げねばならない。そして、本書がこの方々の献身に、多少なりとも報いられるものであることを何よりも念願する。

    昭和六一年六月末日
           NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム・川竹文夫


posted by 川竹文夫 at 09:55| ヒロシマ爆心地