2013年10月06日

1挑戦…出会い/出発進行

出会い

 とっくに春だというのに、窓から見下ろす街には、冬の名残の風が吹いている。
 NHK放送センターのある渋谷は、若者の街、季節を先取りする街だ。しかし今年に限っては、遅い季節のめぐりにとどまってか、公園通りにも、まだ重着の姿が目立つ。
 4月。私は、放送センターの一室から、版画家池田満寿夫氏の熱海のアトリエに電話を入れた。
 NHKのテレビ番組『謎の絵師・写楽』への出演依頼のためである。“世界的版画家池田満寿夫氏が、天才浮世絵師写楽の謎に挑む”これだけでも話題になる筈だった。
 「写楽! もちろん興味はありますよ。スケジュールさえ、とれればやりましょう!」
 池田氏が以前から写楽に特別の関心を寄せていることは、氏のエッセイなどから充分に承知してはいた。
 しかし、それにしても池田氏の反応は明快で素速かった。
 3日後、早速に打合開始だ。NHKの『日曜美術館』という番組に出演中の池田氏を、スタジオ横のロビーで待ち受ける。
 ロビーには数台のモニターテレビが並べられ、各々が本番収録中のスタジオ内の様子をひとつずつ、画面に映し出している。何度も頷きながら、じっと見入る人。その視線をよぎって、チョンマゲの集団がスタジオに急いでいる。
 413スタジオを映し出したモニターテレビの中で、池田氏は、江戸の町絵師、俵屋宗達について、大胆に自説を展開していた。アフロスタイルのボサボサ髪をせわしげに掻きあげ、必死に言葉を探したかと思うと、いきなり立ち上がって背景に置かれた絵の細部を、撫でるように分析、解説してみせる。口を衝(つ)いて出る言葉には熱があった。
 やがて本番は無事終了。スタジオから出てきた池田氏は、司会者と歓談しながらも、目で私を探していた。
この日、打合せに割いていただいた時間は30分。この時をはずすと一週間後まで、スケジュールがとれない。池田氏は超多忙である。挨拶もそこそこに、用意した企画書をまず、読んでいただく。
 『NHK特集提案〈タイトル〉“池田満寿夫推理ドキュメント 謎の絵師・写楽”』
 冒頭の惹句にはこうある。「芸術家の透徹した眼が、日本美術史上最大の謎、写楽の正体をついに解き明かす! 知的冒険に満ちた硬派のエンタテインメントである」
 「放送日はいつですか?」
 かたわらのコーヒーに手を伸ばしながら、池田氏は尋ねた。
 「7月1日です」
 「そりゃあ……大変じゃないですか……放送日まで3カ月足らずでしょう!」
 あきれたように声を張り上げる。
 無理も無い。“写楽の正体”といえば、明治以来、様々な研究者が必死に挑戦を続け、しかも未だに全く解けぬ謎なのだ。これまでに登場した説は30を数え、ここ数年に限っても、山東京伝説、秋田蘭画絵師説等々、新しく発表される説は、ひきもきらない。この上、新説の入り込む余地などは殆ど無さそうに見える。しかも今度の場合、わずかに3カ月という期限つきなのだ。
 「僕は確かに写楽が好きで、これまでに出された研究書もたいてい目を通しているつもりですよ。だけど正直言って、僕自身の確固たる説なんて無いですよ。写楽研究家じゃないですからね、僕は。これは難しいなあ。3カ月足らずでしょう?」
 無理は承知の上だ。しかし放送にはタイミングというものがある。どんな話題を、どの時期に、どういう時間帯で放送するか。『写楽』の放送期日について、プログラム編成のプロが出した結論が7月1日なのだ。相当の事情がなければ、放送日を先にのばすことはできない。
 しかし池田氏がどうしても無理だと言うのであれば、この企画はスタートからつまずいてしまうのだ……。
 池田氏に対して、何ら有効な説明もできないままに、ただ企画書に目を漂わせるばかりの私を励ますように、池田氏は口を開いた。
 「これまでの説の中で、僕自身が比較的納得しやすいものを一つ挙げると、蔦屋重三郎説ですね」
 写楽の版画を一手に出版した版元、蔦屋重三郎(略して蔦重と呼びならわされる)自身が写楽だという、よく知られた説である。
 「でも、蔦重は絵が描けないでしょう? その点この説は弱いんじゃないですか?」
 私は、この説に対して以前から持っていた疑問を口にした。
 「そう。確かにそうですね。だけど写楽は新しい線を生み出したわけじゃないんですよネ」
 「…………」
 「写楽は大胆なデフォルメで新しい形、フォルムを生み出した。だけどこれまでに無い描線を生み出したわけじゃない。これまで誰にも引けなかった新しい線を引くには、これは、長年の修練を積んだプロじゃないと無理ですよ。だけど形を生み出すのは比較的、やさしい。もちろん、それなりの才能はいるけれどね。極端に言えば素人でもできる。蔦重は版元、つまり今で言えばプロデューサーですよね。当然、新しく売り出す絵の企画、立案に始まって、下絵、彫り、摺りとそれぞれの段階で出来不出来をチェックする。下絵に手を入れることだってあったと思う。そういう長年の経験と知識を総合して、蔦重はこれまでにない……」
 私は安堵した。たしかに現段階では、“これが写楽だ”という池田氏の新しい説は無い。取材期間も限られている。しかし池田氏のこの柔軟な発想をもとに、懸命の取材、調査をすれば、これまでの写楽研究に、何かしら新しいものをつけ加えることができるのではないか。現に、同じ蔦重説を開陳するにしても、池田氏の説明は蔦重説を発表した当のご本人にも無い、画家としての独特の視点で強力に裏打ちされているではないか。
 この“画家独特の視点”を最大限に活かすのだ。それがたとえ時間切れに終わっても、あるいは空振りになったとしても、その推理と調査の過程を映像化するだけでも、充分、知的刺激を味わえる番組ができるのではないか……。私はこう考え始めていたのである。



出発進行

 「写楽は大坂の人間じゃないかと思いますねえ。そして、江戸に来るまでは歌舞伎の看板絵かなんかを描いていた……」
 池田氏の話は、私の頭の中にはおかまいなしに、いつの間にか、氏独自の推理にまで発展していた。
 「写楽は大坂の役者をずいぶん描いているんですよ。あの時代は、上方の役者がようやく江戸に登場してきたばかりの頃で、まだ江戸の人たちにもなじみが薄かった筈なのに、ですよ。もちろん、同じように役者を描いていても、他の絵師たちは、写楽のようには上方の役者を描いていない。
 それに、写楽の絵の役者たちのあの表情は、大坂の雰囲気を色濃く持っているしね。看板絵を描いていた“浪速(なにわ)の写楽”というのは、どう?」
 大丈夫いける。私の安堵は確信に変わっていた。写楽という難物を相手に、しかも不利な条件をものともせずに、池田氏の頭脳は既に、写楽を追い求めて動き始めているではないか。
 約束の30分はとうに過ぎていた。私は冷めたコーヒーをすすると、慌てて取材方針を打ち合わせた。
 “池田氏の版画家としての発想と推理を最大限に活かし、NHK側スタッフは、その具体的な裏付け調査をする。そしてカメラは、池田氏の取材と推理の過程をたんねんに追うのだ”
 これで池田氏は、正式に、この企画に同意を与えてくれたのである。
 今後の取材スケジュールを確認し、もう一人の中心的なスタッフである北原俊史ディレクターの名をメモすると、池田氏はもう、中腰になっている。

「さっきの蔦重説のことですけど……」
 左右に幾度も折れる長い廊下を玄関に急ぎながら、私は池田氏にさきほどの話を蒸し返した。ひょっとすると、池田氏が本当に蔦重説を信じているのではないかと危惧したからである。
 「ああ、あれはあくまでも画家の、私の目から推理すれば、そう考えることもできるというだけのことですよ。だからと言って別に信じたりはしていません。第一あの説は、発表した当のご本人が、後に自ら否定してしまった説ですよ。あまりに何も証拠が出てこないということで……。僕はチョッピリ惜しい気がするけどね」
 いたずらっぽい笑みを送りながら、池田氏は最後にこうつけ加えた。
 「何とかやりましょうよ。新説が出なかったら出なかったで、我々がガックリしているところを見てもらえばいいんですよ」
 4月6日。こうして池田氏と私たちの、共同による写楽大追跡が始まったのである。




posted by 川竹文夫 at 21:26| これが写楽だ