2017年01月14日

2 忘れられた絵師・写楽…写楽登場


写楽登場

 寛政6年(1794)5月。全く無名の浮世絵師東洲斎写楽は、28点の役者絵を引っさげて、いきなり江戸の街に登場した。
 そこに描かれた歌舞伎役者は30人、都座、桐座、河原崎座の控櫓三座揃っての5月狂言で、舞台を飾った役者たちである。30の顔は、すべて思い切ったクローズアップ、しかもそのどれもが、古い鏡面のような鈍い光を放つ背景から、異様なまでに誇張された表情を、見るものにヌッと突きつけてくるのだ。普段見慣れた、きれいごとの役者絵とは違う。この不思議な絵の噂は、口から口へ、江戸市中を飛び交ったに違いない。しかも人々の驚きの中、矢継ぎ早やに刊行された役者絵は、またたくまに140点を超える大量にのぼった。
 東洲斎写楽とは一体どんな素性の絵師なのか。好事家の詮索が及ぶ間もない翌寛政7年2月、その突然の登場に符丁をあわせるかのように、今度はふいに消息を絶つ。この間わずかに10カ月のことであった。
 以来190年。写楽がいつ、どこで生まれ、あの華々しい登場のときまで何をして暮らし、また、誰に絵を学び、そしてふいに消えた後、いつ頃、どこで、どのようにして死んだのか、今もすべてが謎。それどころか、東洲斎写楽という人物が実際に存在していたかどうかということさえ、定かではないのである。
 さて、この辺で写楽の謎の演出者ともいうべき人物を紹介しておかなければならない。
 写楽の全作品に、富士山形に蔦≠フ商標をくっきりと記す男。耕書堂蔦屋重三郎こそ、その人物である。彼は当時、江戸屈指の大手版元であった。
 蔦屋の最初のヒット作は『吉原細見』。吉原の茶屋、妓楼、芸者などを網羅した、今でいうガイドブックであろうか。
 蔦屋はそれまでの横本形式を、手に持ちやすい縦本に変え、大田南畝などの一流文化人に序文を書かせるなど、大胆な工夫を凝らして成功した。やがて蔦屋は当時の出版のメッカ日本橋通油町に進出、一気に大手にのし上がってゆく。
 山東京伝、大田南畝、滝沢馬琴、歌麿、十返舎一九など、時代を代表する鬼才がその蔦屋を舞台に活躍する。その様は、後の歴史家をして、蔦屋が江戸文化を支えていた≠ニまで言わしめるほどであった。
 しかし寛政3年、蔦屋は、悪名高い寛政の改革のあおりを受け、大きな痛手をこうむることになる。蔦屋から出版した『仕懸文庫』を始めとする京伝の3部作が発禁処分を受けたのである。作者京伝は手鎖50日、版元蔦屋は財産半減という厳罰であった。
 折悪しくも、蔦屋のエース、歌麿は他の版元に移り、あろうことかライバルの版元和泉屋市兵衛は、寛政6年正月、気鋭の絵師豊国を起用し、大判役者絵シリーズで『役者舞台之姿絵』を刊行したのである。蔦屋は創業以来最大のピンチに立たされた。
 遅れること半年、寛政6年5月。蔦屋は起死回生の大博打をうつ。無名の絵師、東洲斎写楽をデビューさせたのであった。
 謎の天才は、蔦屋によって、こうして世に放たれたのである。

 現在、写楽は、その版画1枚が3千万円近い破格の高値で取り引きされ、世界三大肖像画家の一人として世界中の賞讃を浴びている。
 無名の絵師の、わずか10カ月間の制作活動が、世界美術史上の一つの頂点を極めるという例が他にあっただろうか。そしてまた、これほどまでに注目を浴びながら、これほどまでに一切が謎の画家がいただろうか。
 比類のない作品の魅力と、未だ解けざる謎。写楽のすべては、私たちを引きつけて止まない。



posted by 川竹文夫 at 16:51| これが写楽だ