2017年01月09日

一徹の人〈第1回〉中川幸夫さん


一徹の人〈第1回〉

たった一人で家元制度に挑んだ生け花の巨人

中川幸夫さん(取材時83歳)
〜『いのちの田圃(たんぼ)』創刊号より〜


さまざまな分野で一筋の道を貫く人たち。崇高にして爽快なその人生の軌跡を、川竹文夫が心からの尊敬を込めてレポートする。 
 第一回は、生け花作家・中川幸夫さん。古田織部賞」を受賞し、ますます息高らかな中川さんは、不敵な笑みを浮かべつつ、この日も東京・中野の光荘で、たった一人、花の宇宙を紡ぎだしていた。

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花の血か
 「いやーもう、叱られてばかりでねえ」
 もてなしの茶菓を運びながら、そうこぼしてみせる中川幸夫さんの顔は、言葉とは裏腹に、満々たる自信をたたえて笑っている。
 三年前、初対面のときと同じだ。再会が嬉しくて、私も同じ憎まれ口が出る。
 「それだけ好き放題にやっていれば、叱られても仕方ないでしょう」
 中川さんが一層愉快そうに笑う。師なく弟子なく、八十三歳の今日まで、強大な家元制度に守られた生け花界に、徒手空拳で、挑んできた。
 その孤高の世界は、生け花というチマチマした概念をとっくに超えている。
 例えば代表作の一つ「花坊主」。深さ八十センチの透明なガラス壷に、九百本の真っ赤なカーネーションを詰め込んで一週間、腐敗に向かう花弁の、異様な姿とふるまいを味わえというのだ。
 詩人滝口修三は、その驚きを、次のように記している。『ガラス壷を白い和紙の上に逆さに置いて待つうちに、静かに滲出する花液が紙上に刻々と軌跡を描きだしたのである。
 花の血か。おそらく花たちは、互いに窒息しつつ体液を滲出するかのように思われた』
 こんなものは、生け花ではない 。花の世界に身を置いてすでに半世紀。中川さんは、そうした怒りと罵声の中で生きてきた。

池坊との決別
 「池坊の恥や!」
 昭和二十六年、第二回日本花道展。当時池坊に所属していた中川さんは、流派の代表審査員から面罵される。ミカン箱に縄を巻きつ
け、白や黄色に彩色した浜匙(はまさじ)を盛り上げた作品が、駄目だというのだ。
 しかし本当の理由は、中川さんが、出品作をあらかじめ彼に見せ、指導と許可を受けていなかったことにあった。そうすることが、しきたりであったからだ。
 だが、中川さんは納得がいかない。
 「自分のもの、自分で活けたいように活けるのは、当たり前でしょう。規則違反やゆうて、お客さんの前で怒鳴られて、黒山の人だかりですよ」
 華道界の各流派が競うこの展覧会では、流派を代表する審査員からにらまれては、入選はまったくおぼつかない。果たせるかな、結果は、予選落ちであった。 数日後、中川さんは、池坊に脱退届けを出す。
 草月流家元・勅使河原蒼風が、中川さんの作品を最も高く評価していたと、人づてに聞かされたことが唯一の救いであった。
 だが翌年、中国四国選抜作家展では、その蒼風にさえ、激しい攻撃を受ける。 
 「私の作品に手を掛けて、こう、ガタガタと揺するんですよ。揺すって壊そうとする。すぐに持って帰れって。こんなのは生け花じゃない、お客さんを迷わせるなって。展覧会の初日にですよ」
 それは、数本の杉の角材を赤と黒に塗り分けて構成した大胆なものであった。 
 「材木なんか生け花じゃないって。お客さんが理解できるように、木の上にツルか草でもかけろって言うんですわ。帽子みたいにね。 なんでそんなこと言うのかと思ったら、蒼風さんは大谷石を五つほど積み上げてね、その上に蔓をストーンとかけてあるんですわ。
 けど、石よりは、木の方がましでしょうが。一応植物なんやしね」
 ところが、その数年後。
 「蒼風さんが、杉の材木を高島屋の玄関に立ててね。アレレッと思いましたよ」 節くれた分厚い手で、頭を撫でながら・・・あんたどう思う? と言わんばかり。私の反応を笑って待つその顔は、さながらヤンチャ坊主だ。
 「先生、それは早すぎたんですよ。蒼風さんより先を行ったらまずいですよ」
 「いやー、そんなんばっかり。みんなに叱られてばかりでねえ、もう」
 鉈彫の仏像にも似た顔がひときわ豪快に笑った。

花を食べる
 昭和三十一年、中川さんは、故郷の四国丸亀から上京する。
 いかなる流派にも属さない、どこからの束縛も受けない。門弟二百万人を抱える池坊に背を向け、一人のまったく独立した作家として、人生のすべてを花に賭けようというのだ。
 たった一人で・・・。いや、出発に先立ち、中川さんはある人に電報を打っている。「トウキョウデ マツ ユキオ」
 受取人は、生涯の伴侶であり、たった一人の同志となる女性、半田唄子さん。九州の由緒ある流派・千家古儀の家元であった。
 しかも彼女は、上京に先立ち、自らの手で流派を解散、家元の座を打ち棄てていたのである。
 命がけ・・・二人の決意に思いを馳せるとき、私には、この月並みな言葉が、にわかに生々しい現実感を持って迫ってくる。
 生け花で生きるということは普通、誰かに教えて、その月謝で食べるということである。
 だが、流派に属さない人間では、それも無理。弟子たちは、流派の「型」を教わりたいからである。流派の看板もなく、いや、家元からうとんじられ、ましてや生け花とも見えない異形の花を活ける中川さんに、人は集まるはずもない。
 しかも、すぐに枯れてしまう生け花は、どんなに素晴らしくとも、売ることができないのである。
 二人の生活は、たちまち貧窮をきわめた。
 「いつもね、逃げるように野菜を持って帰ってね、八百屋から。貸しといてねーって、言い終わらないうちにもう、駆け出してね」
 窮状を見兼ねた知り合いのつてで、キャバレーで花を活け、その報酬で、六畳一間の家賃を払えば、もういくらも残らなかった。
 が、店の都合で、その金さえ予定の日にもらえないことも、しばしば。
 「電車賃がないから、二時間歩いて行ってるんです。それが、『今日は都合が悪いから』って。また歩いて帰るんです。遠い、遠い。往復四時間ですからね」
 バラ、椿・・・空腹の余り、活け終わった花たちを食べたことさえあった。
 「わりと甘いもんだけど、ゆでたりすればもっと良かったかもしれないね」
 六畳間の二人の戦場に、高笑いが弾けた。

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命の叫び
 「あっちは、富山は、山が険しいでしょ、黒部の山はね。その大川に、あっちこっちの支流から、物凄い勢いで流れ込んでくるんですよ。赤、紫、白、黄色のチューリップがねえ、何本もの流れになって入り乱れてドッ、ドッ、ドッ」
 もう二十分あまりにもなるだろうか、中川さんは、もう一つの代表作「闡(ひらく)」が生まれるきっかけとなった情景を語り続けて飽きない。
 「闡」は、深紅のチューリップ数万本の花弁を四角に固まらせ、棕櫚縄で縦横に縛ったもの。
 皮を剥がれたばかりの獣の肉塊が、静かに赤い肉汁をしたたらせている・・・見てはいけないはずのものが、突然目の前に投げ出されているような、そんな生生しさ、痛々しさ。
 「チューリップはね、球根を取るのが目的だから、花はいらない。全部捨ててしまうんですね、川に。それが、支流から大川にどんどん集まってくる。いやー見事ですよ。絨毯みたいに波打って、うねって、極彩色ですもん。何、これーって。凄い」 
 土地の人にとっては、まったく無用のもの。が、中川さんには、捨てられた花たちの叫びが聞こえた。
 「花にすりゃ、捨てられてしまって、もう生きるすべはないわけですよ、行く末はどうにもならない。だけど、それでも生きている。生々しいですよね」
 矢も盾もたまらず、中川さんは、運べるかぎりの花たちを持ち帰り、ミカン箱に詰める。
 「花びらは糖分があるのでビタビタとくっついて固まってくる。ジリ、ジリ、ジリッ、ジリッ、汁を流してね。自分の運命に反発してるんですよ。まだ生きてるんだ、どうにかしてくれって。そのね、狂い咲きのような、最後の命を見届けたいんです、こっちは」
 終始、からっと爽快であった中川さんの顔が、このときばかりは、獰猛であった。
 「花はね、猛々しいものなんです。決められた型なんかに納まらない。その花のね、自分は、ここをこう選ぶんだと、責任持ってね。だから、絶対に流派の問題じゃない。個人の問題。流派は『型』は教えるけど、『血』を教えることはできませんからね」
 中川さんの眼が、すばやく壁をたどる。そこには、ひときわ伸びやかな、半田唄子さんの遺影があった。

                         文/川竹文夫


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「納得の行かないことにはどこまでも抵抗する。好きだからやる。それで今まで生きてきたんですから、まあ、いいとしましょう。こんなことして、よく食べてこれたなあ、ちゅなもんですよ」





posted by 川竹文夫 at 05:41| 月刊『いのちの田圃(たんぼ)』