2017年02月26日

一徹の人 第4回


宮澤賢治一人語り

林 洋子さん
〜『いのちの田圃(たんぼ)』2001年4月号(第4号)より〜


さまざまな分野で一筋の道を貫く人たち。崇高にして爽快なその人生の軌跡を、川竹が心からの尊敬を込めてレポートする。
第4回は、宮澤賢治の童話や詩の一人語りを続ける林洋子さん。
「あなたの住んでいるところへ『賢治の世界』を出前します。舞台もマイクもいりません」


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一人語り
 やわらかい指先が、タンバリンを小刻みに打つとき、かすかな強弱をともなったその音は、悲しみを抱いて夜空を虚しく飛び回る、よだかの羽の音。
 手のひらが激しく打ち据える一瞬、その音は、命の限りを尽くして天空に駆け上がる、よだかの、胸掻きむしる激情をすくい取っていた。
 二つの音を縫って、きっぱりと、あるいはしめやかに語りの声が響いてくる。
 声の主は、林洋子さん。黒いTシャツに黒ズボン、片手にタンバリンを携えて、一人、立つ。
 二十一年間、全国千三百ヵ所。お寺、神社、かやぶきの農家、そば屋の二階。演じ手と観客が手の届く距離を大切に、語りの出前を続けてきた。
 この日の演目は、『よだかの星』。
 満員の観客のどの目も、林さんを凝視している。いや、見ているのは、語りに導かれて豊かに膨らんだ、一人一人の『よだかの星』なのだろう。
 語りに引き寄せられるのか、観客の固まりが、じりじりっと迫り出して、林さんとの距離は、また少し、せばまった。
 
お前は何者か
 「これこれのために、こう準備しなければならないというのではなしにね、ふいに出会ったことが、後で、非常な重さを持ってつながってくる・・・人生ってそうじゃないですか」
 春の風が、開け放ったマンションの窓辺に、都会のかすかな騒音を運んでくる。その響きに乗せて、林さんはこの二十一年の 命の出会い を語り始めた。
 始まりは一九七一年、水俣市民会館の、あの一声。 
 当時、新劇の俳優であった林さんは、『東京水俣病を告発する会』のメンバーとして水俣病患者を演じていた。演目は石牟礼道子原作『苦海浄土』である。
 「観客のほとんどは患者とその家族で、その患者さんに扮した私たちが、舞台の上から、苦しげにうなり始めたんですよ。ウーウーって。そしたら、客席の中から、ウゥウー、ウゥウーって、もの凄い おらび声 が聞こえてくるんです」
 声の主は、友子ちゃんという胎児性水俣病患者。つい先ほど、楽屋で頭を撫でて話し掛けたばかりだった。首は死んだ鶏のようにガクンと垂れたまま。手は体に引き付けられ、曲がって動かず、口もきけない。
 「でも・・・」と、そのとき母親が言っていた。
 「でも、友子は何かを感じたとき、おらぶんですよ」
 彼女が何を感じていたのか、今もって分からない。 しかし・・・。
 「友子ちゃんのおらび声はね、『お前は何だ』『お前は何者だ』って、私の心を刺し貫いたんです。私は患者じゃない。演技しているだけ。『私は何者なんだ、俳優って何なんだ』って。そしたら、パタリと」
 一切の芝居が、出来なくなった。

生身で向き合う
 そして数年。林さんは、インドにいた。観客と一緒に、十日間も寝泊りして歌い続ける、大道芸人バウルたちのテントの中にいた。
 「アクタラって楽器を手に持って、打楽器のようなカマックもテケテケテケテケって、凄い音出して。足に鈴巻いていて、突然ぴょーんと飛び上がったり、かたっぽでは、横笛ヒューって吹いて。子供がシンバルをシャンシャンシャン叩いて合わせたり。すっばらしいんです。何とも凄い。バウルたちの目を見てると、もう、どこまででもついて行きたいって気になるわけね。それでね、ほら」
 雑誌を広げると、もどかしげに、その写真を示す。
 「境目がないんですよ、やる人と聞く人の、ね。くっつきそう。生身で向き合ってるのよ。そのとき私は、ああ、もう一回役者としてやるんだったら、こういう風にやりたい、こうしかやりたくないって」

生まれいずるもの
 一九七九年、帰国。
 しかしそこには、人間の匂いが感じられなかった。 
 「ここで生きられるかなー、インドに永住しようかなーって」
 悶々とした二ヵ月ほどが過ぎたそんなある日、何気ない情景が心をとらえる。 乗っていたバスが、信号で停まったときだった。
 突然の通り雨に、窓外をふと見ると・・・驚いた母子が、横断歩道を小走りに駈け、向かいからは中年の男が、ハンカチをヒョイと頭に、すれ違っていく。
 信号が変わり、バスは動きだす。何事もない情景は、そのまま一枚の小さな絵として終わりそうだった。 
 が、林さんの目は何故か、なおも、母子を追う。
 「女の子がお母さんの袖をチョンチョンチョンと引っ張ってね、何かを言ってるのね。お母さんがそれを優しくヒョッと見下ろして、まるでね、雨に濡れて喜んでいるようなね、凄くやわらかーい姿でね」
 木々の緑が、濡れてふるえて光っていた。
 「あー、これが日本の春の雨なんだなー、もし、インドに永住したら、どうしようもなく、この日本の雨を思い出すなーって。
 そう思ったときにね、その瞬間に・・・理屈ではどうにも説明出来ないんですが、ピカッと、宮澤賢治が飛び込んできたんです。そうだっ、私は俳優だ。賢治さんを語って、あの母さんに会いに行こう、あの女の子に会いに行こう、あのおじさんに、こっちから、会いに行こうって」
 少女のおらび声、バウルのテント、母と子、そして宮澤賢治・・・水俣のあの日から八年、今、すべてが一本の糸につながり、美しい織物を紡いだのである。

支えあう命
 そして、さらに、二十二年が過ぎた。
 「お母さんも女の子も、どこかで元気にしてらっしゃると思うけれど、私という一人の人間が、こんなにも大きなものを与えられたということは、まったく夢にも思っていないでしょ。だけど私にとっては、かけがえのない命の仕草だった。人間って、生きているだけで、誰でも、それだけの凄いものを持っている、一人一人の中に、すでに持っているのよね」
 公演ではいつも、会場の設営から、照明係、司会進行のすべてを、依頼した人たちが自らの手で行なう。
 「全部当日の三時間で教えるから、私も必死。お客さんも決して逃げない。だから初対面なのに、終わるとね、もうほんっとに離れたくない、ずっとここにいたいって思う。照明係で全国ついて歩きたいって言う人もいるんです。つながりあって、支えあって・・・それが命」
 そんな命が、今、三十万人を越えた。
                                文/川竹文夫

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posted by 川竹文夫 at 10:28| 月刊『いのちの田圃(たんぼ)』

2017年02月04日

一徹の人〈第3回〉 新野まりあさん


世界一の人工乳房を制作

新野まりあさん
〜『いのちの田圃(たんぼ)』2001年3月号(第3号)より〜


さまざまな分野で一筋の道を貫く人たち。崇高にして爽快なその人生の軌跡を、川竹が心からの尊敬を込めてレポートする。
 第三回は、乳ガン手術をバネに、まったくの素人から世界一の人工乳房制作者となった、新野まりあさん。その歩みを知った人は、この人の前で、「不可能」という言葉を使えなくなるだろう。

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乳房喪失
 両手が黒いセーターをつかむ。白い肌が見える。
 私は一瞬のちの光景を予想してたじろぎ、が、そのときはすでに、胸の赤い傷痕が視野を占領していた。
 それは、今まさにセーターをたくし上げた右腕のつけ根から肋骨の下まで、扁平な胸を縦に貫いている。 私はいたたまれず、視線をその人物の顔に移す。と、そこには、新野まりあさんの、ゆったりとした微笑みがあった。
 「私はね、どこででもホイッて見せるの。ショウウィンドウですからね、私の胸は。患者さんに、実際に人工乳房を着けたり外したりして見せてあげるんです。シャワーを浴びたりね」
 新野さんは、間違いなく世界一精巧な、人工乳房の開発者である。
 それは、着けているのだが、胸から生えているとしか見えない。湯につかると生身の体と同じ色に染まる。

 その十三年前、新野さんは、ハルステッド法による乳ガン手術を受ける。
 「もうほんっとに無知で、知識がないからなーんにも質問出来なくて」
 だが、麻酔から覚めると、すべてを失っていた。
 「胸は真っ平らで・・・」
 その上、右腕は肘から九十度に曲がったまま、動かせない。この先には、腕を固まらせないための辛いリハビリが待っている・・・はずだった。
 だが、ここからすでに、新野さんは違っていた。
 すし大学オーナー、日本フラダンス協会代表という二つの経験が、存分に発揮されるのである。
 「生のフィレ肉を寿司ネタにしたことがあって、そのとき、大きく見せるため生肉をビールビンで叩くんですが、いくらでも延びたんですよ。で、生肉は延びるんだと、それ思い出して、傷口が開かないように左手でグッとつかんで、右腕をこうやって・・・」
 フラダンス独特の、あの波のような腕の動きを、リズムに乗せて繰り返した。 そして一週間後の抜糸の日。医師は、リハビリの開始をおごそかに告げる。
 「滑車で腕を吊して」
 新野さんは笑った。
 「なーに言ってんですか、先生。これもんですよ」
 ピクリとも動かないはずの腕を、背泳のようにグルグルグルグル、自由自在に回してみせたのである。
 「新野さん、これ使えますよ」
 驚きのあまり、医師は頓狂な声を上げて、讃えた。

ないなら、作る
 そんなある日のこと。人工乳房を売っている店を、医師にたずねた。すると、
 「ブラジャーに靴下でも、まるめて入れとけばいいんじゃないの」
 あって当然のものが、実は、なくて当然であることを、その返事は、冷酷に示していた。
 「悔しさと、悲しさと、ジワジワくる怒りと。ショックが日ごとに深まってくるんですよ」
 しかし・・・。
 「待てよと。どこにもないんだったら、作るしかないな。誰もやっていないんだったら、作れば唯一の生産者になれるなと。その世界のパイオニアになれるんじゃないか。もしかしたら、神様は人生最高のチャンスをくれたのかも知れないなと。この胸を研究材料にして、ここのこの胸を研究室にしたら、私には出来ると思ってね」
 早速、ベッドの上で試作が始まった。シャツ、靴下、洗車用のスポンジ。思いつくかぎりの物を集めては、切り刻み、またあるときはミカンの網の袋に詰め、メリヤスのシャツの裏に縫い付け・・・こうして初めてのパッドが出来たのである。
 退院後、新野さんはそのパッドを胸に、待ちかねたフラダンスのステージに復帰する。
 ところが、胸ぐりの大きい衣裳では、どうしてもパッドを縫い付けたメリヤスのシャツが隠れない。
 「だったら見せればいいんじゃないのと。それで、スパンコールや色んなフリフリをつけて思い切り派手やかにしてね」
 それを激賞した生徒に、新野さんは、種明かしのように、パッドを取り出してみせた。
 「そしたら・・・先生、これ凄い。必要な人、いっぱいいますよ、みんな泣いていますよって」
 インタヴューが進むにつれ、私の胸には焦燥感がふくらんでいた。このまま、
 『開発物語』で終わってはいけない。私には知りたいことがある。唐突を承知で、それを口にしてみた。
 「胸をなくされたお気持ちには、どういう風に折り合いをつけたんですか」
 新野さんが、この日、初めて小さく目を伏せた。
 「乳房失ってしまったら、気持ちの折り合いなんかつかないです、大抵の人は。男に対しての女でなくなってしまう悲しみは、口に出せない。その喪失感に打ちひしがれて、暗い方へ、暗い方へ思考を引っ張るんです。みんなも、私も」
 新野さんの声に、秋の雨のような淋しさが宿った。
 だが、それも束の間。
 「それでね、私、『天使の卵』っていうストーリーを作ったんです。夢をね。嘘でもいいから、美しい理由がほしいんです。自分だけが何故オッパイを失ったのかという理由ね。神様はいいオッパイだけを選んで、天使に狩りをさせるんです。そのオッパイどうしているかというと、闇に葬られた子供たちが集められている園があって、そこで『お母さんのオッパイだよ』って、集めた、いいオッパイをあげてるんだって」

乳房創造
 ヨーロッパ、ブラジル、アメリカ・・・人工乳房創造に向けて、新野さんは駆け巡った。あるときは、ハリウッドの映画用特殊メイクの技術に目を付ける。が、見本の人工人体は一体八千万円、技術を学ぶだけでも二千万円という。諦めるしかなかった。
 医療用人工人体を開発した人を訪ね、いきなり叱られたこともある。科学者でも医者でもない素人がやるべきことではない。乳房がなくても胸を張って生きられるよう、カウンセラーになれと言うのだ。
 だが、新野さんは食い下がる。 「あなたは男だから分からない。まず体を修復することが先」だと。
 根負けした彼は自ら試みて失敗した人工乳房を見せる。それはシリコンで出来ていた。
 「これから先は私の仕事」
 直感した新野さんは、シリコンメーカーを探し、そのつてで、人体修復の世界的権威・イギリスのロバーツ博士に入門を果たす。
 医者以外は入門出来ないはずであったが、ここでも粘りでもぐり込んだ。
 だが、問題は費用。授業料一日六万円。しかも正式なコースは七年。その上、当然、渡航費、食費、ホテル代・・・。費用を工面しては出直し、なくなれば帰国、そしてまた稼いでイギリスへ・・・七年のコースを実質七ヵ月で終了した。
 そして今・・・。
 『緊急発表』と題されたマスコミ発表の文書には、こう記されている。
 『21世紀1月11日。この日を私は一生忘れないでしょう。幾多の困難な道のりの末に、神様はすばらしい贈り物を下さったのです。お知らせいたします。理想的な乳房がこの日完成したことを! それは呼吸するんです。むれない・汗もかかない・着けたまま、スポーツ・洗髪・水泳も大丈夫。ノーブラ勿論0K! 激しいSEXもできる。しかも、このオッパイは快感をも感じることができるのです』
 私は以前、新野さんがシリコンで作った最初の人工乳房を見たことがある。それは、古びたゴムの帽子のようなものにしか見えなかった。
 あれから約十年。数限りない改良が加えられたのだろう。今、手に取るそれは、まさにこの歓喜あふれる文章そのままであった。

困り事のまりあ
 だが、更に驚くべきことがある。新野さんは、新しいモデルが出来るたび、無料で新しいものに作り替えてあげているのだ。
 「いや、材料費の五万円はいただいているので、無料じゃないですよ」
 しかし、本来の料金は五十万円から二百万円なのだ。五万円では、考えるまでもなく大赤字。しかも、新しいモデルが出来たときこそ、リメイクで儲けるチャンスではないのか。
 「それをやると、私は商人になってしまうでしょ。赤字でも何でも、これは、私の患者としての使命なんですよ。全部、私が作り直しています」
 しかしそれでは、経営が成り立たなくはないのか。
 「何とかなりますよ、必ず。私は、貧乏学のプロフェッショナルですから、さあどうするってときには、ぱっと解決策が浮かぶんです。だから私ね、『困り事のまりあ』とか『とっさのまりあ』って呼ばれてるんですよ。一番いいのは、家賃を滞納することね。半年くらいほっておくと裁判になるでしょ、それであれこれやっていると結局一年くらいは居座っていられる。月十万の家賃としても、百二十万円は使えるんですよ、開発に」
 さも愉快そうに笑う。
 「私は患者さんが求めるものにたどり着くために、みなさんの体をお借りして研究しているようなものですよ。使命ですから、儲けられない。お金はいつもないです。ですけど、私はやって差し上げたいんです」
 私は確信する。
 マスコミ発表の文面に踊る新野さんのあの歓喜は、そっくりそのまま、胸を失った無数の患者さんの歓喜でもあることを。





posted by 川竹文夫 at 19:47| 月刊『いのちの田圃(たんぼ)』