2017年01月23日

一徹の人〈第2回〉森田三郎さん


一徹の人〈第2回〉

ヘドロの海を国際的な干潟に

森田三郎さん 

〜『いのちの田圃(たんぼ)』2001年2月号(第2号)より〜

 さまざまな分野で一筋の道を貫く人たち。崇高にして爽快なその人生の軌跡を、川竹が心からの尊敬を込めてレポートする。
 第2回は、十八年のゴミ拾いの末、ついに故郷の失われた自然を取り戻した、森田三郎さん。個人タクシーの運転手にして、県会議員。人は彼を、狼と呼ぶ。

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 望遠レンズの放列が一斉に動き、バードウオッチャーたちの口から、どよめきが漏れる。鷹がカモに襲いかかったのだ。
 青い水面がにわかに波立ち、鷹のはばたきに、水辺のヨシがざわめいた。
 千葉県習志野市、谷津干潟。周囲三・五キロ、広さ四十ヘクタール。年間を通じて百種以上の野鳥でにぎわい、ラムサール条約によって、世界的に貴重な湿地と認定された、都会の中の、美しい恵みである。

瀕死の沼
 「布団や毛布、冷蔵庫、テレビ、タンス、自転車、バイク、墓石、注射針なんか何千本も。近所の人たちは捨てるわ、トラックは産業廃棄物をバンバン捨てていくわ。解体した家、丸ごと一軒分捨てられることもあったね、何度も」
 挨拶もそこそこ、森田三郎さんは、あるゴミ捨て場の姿について、まくしたてた。
 「野菜くず、馬の糞、魚のはらわた、犬猫の死体。それが潮かぶる、泥かぶる、太い管三本から下水が流れ込んでくる。潮が引いて、夏の天日がガンガン照りつけるでしょ。物凄い匂い。臭いなんてもんじゃない。一番ひどいところでは、そんなのが、高さ四メートルも積み上がってたね、幅百二十メートルもですよ」
 とうていメモなど出来ないほどの物凄いスピードで語られるこの惨状こそ、実は、森田さんがたった一人で、ゴミ拾いを始めた頃の谷津干潟の姿なのである。
 昭和四十九年十二月十三日。森田さんは、ふと手にした朝刊で、一つの干潟が埋め立ての運命にあることを知る。
 全国の海岸が凄まじい勢いで埋め立てられていた高度成長期の日本にあって、それは、さして興味も引かない話題のはず・・・が、よく見ればその干潟とは、故郷の、あの谷津干潟ではないか。
 学校から帰るや否や、お櫃に手をつっこんで冷飯を握り、味噌を塗りたくってほうばりながら駆けつけたあの干潟・・・アサリ獲り、ハマグリ漁、ハゼのつかみ獲り、カレイ突き、ウナギの稚魚をソーメンに見立てて遊ぶソーメンすくい、潮だまりに立っていると土踏まずの下にカレイが潜り込んでくる、それをギュッと踏み付けて、簡単に生け捕る・・・みんなで手伝った地引き網、沖から飛んでくる銀ヤンマの群れに歓声をあげ、満ち潮に追い立てられて帰る頃、夏の白い砂はコメツキガニであふれていた。
 あれから二十年が過ぎていたのか・・・。懐かしさのあまり、森田さんは干潟に駆けつける。
 だが、そこにあったのは、悪臭を撒き散らすばかりの巨大なゴミの山、ヘドロの海であった。

戦いは始まった
 やがて、二十九歳の森田さんは、たった一人、ゴミを拾い始める。
 「最初は恥ずかしくて、三脚にカメラをセットして、図鑑広げてね、バードウオッチングみたいに。それで人がいないのを見計らってコソコソ拾ってね、人が来たら止めて、通り過ぎたらまた拾って」
 それでも、新聞配達員をしていた森田さんは、朝刊を配り終えると、仮眠もとらず、夕刊を配り始めるまでの五時間すべてをゴミ拾いにあてることにした。
 「やり始めた頃は、このゴミ全部拾ってやろうとか、干潟きれいにしてやろうとか、そんな気持ちは全然なかったね。だから、拾うゴミも、表面の乾いたね、発泡スチロールとかビニールとか、そんなものだけ。でも、オチンチンぶら下げて遊んだきれいな砂がこの下にあるんだと思うとね」
 ゴミ拾いは次第に熱を帯び、いつしか、ヘドロにどっぷりと腰まで浸かって作業をしていた。
 「そりゃ気持ち悪かった。ピンクや緑に光ったヘドロがシャーベットみたいになっていてね。厚手のゴム手してても、ブロックなんか持つとすぐに裂ける。おまけに手袋と指の間に砂が入って、指紋なんかすぐに全部消えたね、こすれて。怪我はもうしょっちゅう。破傷風は恐いしね」
 それはもはや、ゴミ拾いなどという生易しいものではなかった。ヘドロの底に沈んで絡まり固まった、木や金属やブロックを、ひっぺがし、引っこ抜くのだ。
 「布団だって、どっぷりとヘドロ吸ってるからね、鎌でぶったぎって、岸まで運ぶんですよ。タンスも大きくて無理だから、その場でスコップでぶっこわす。足場が悪いところでそれやるから、もう泥だらけ」
 しかも、やっとの思いで岸まで引きずり運ぶと、今度はコンクリートの護岸が行く手を阻んだ。
 「岸に下りる前に、ロープを何本も垂らしておいて、ヘドロから引き上げたゴミを括り付けて、今度は護岸の上に回って引っ張り上げるんだけど、重い、重い。冷蔵庫なんかでも、中にヘドロが入っているからね。引っ張り上げようとしてこっちも踏張るんだけど、疲れて握力が弱ってるから、ズズーッと手の中でロープが滑る。摩擦熱で煙が出るんです、ゴム手が溶けて。火傷した、何度も」

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衝突
 しかし、本当の戦いはその後。引き上げたゴミの処分である。もちろん、引き取ってくれる人など、ありはしない。
 始めは、土のう袋に詰め、一般の家庭ゴミにまぜて出せば、収集車が持っていってくれた。しかし、ヘドロをどっぷりと吸った袋はどう見ても家庭ゴミではない。すぐに置き去りにされるようになった。
 仕方なく、ゴミ袋の山を十ヶ所も作り、乾くはしから廃油をかけて燃やそうとした。が、ブスブスと黒煙を上げ、ただならぬ臭気が住宅地に立ちこめる。
 住民は次第に、容赦のない罵声を浴びせるようになり、作業をする森田さんのすぐ横でゴミを捨て、これ見よがしに放尿してゆく者も現れた。
 悪臭に困り果て、一刻も早く干潟を埋め立ててほしいと願う周辺住民にとって、森田さんの行為は、迷惑でしかないのだ。
 市役所に掛け合ってみたこともある。が、干潟の所有者である大蔵省に言えと門前払い。大蔵省は、市民が捨てたゴミを何故、国が引取る責任があるのかと。
 「あっちも一理、こっちも一理、だけどもともと干潟にはゴミなんかなかった。世界中に汚いところなんか一つもない。汚くされたところがあるだけでしょう。自分たちでゴミ捨てて、汚くしておいて、臭くて汚いから埋めてしまえなんて」 どうしても、承服できない。凍える夜も、月明かりで干潟に入った。それでも足りず、時間を稼ぐため、野宿もした。

松葉杖、キブス
 そんな戦いが二年半も続いたある日、過労のため事故にあう。足を複雑骨折し、四ヵ月もの入院生活を余儀なくされるのである。

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 絶体絶命・・・。はたせるかな、退院後に見た干潟は、それまでの二年半を嘲笑うかのように、ゴミのかさを一段と増していた。
 どんなに力を尽くそうと一人の人間が一日に拾う量など、トラック一台が捨てていく、その何分の一にもならないのだから・・・。
 が、それでも森田さんはゴミ拾いを再開する。松葉杖をつき、ギブスの足を引きずりながら、重いゴミはロープを身体に巻き付けて引き上げた。
 ヘドロを吸って冷えきったギブスの奥で、骨をつないだ金具が、不気味にずれて、きしむ。
 地元民や行政との衝突は繰り返され、不可能を可能に変える見通しなど、どこにもありそうになかった。
 「アパートに一人ポツネンといると、それまでの苦労が胸に迫ってね、貯金はない、保険もない、結婚もしない。変人、気違い、よそ者、汚い、臭い。ののしられて馬鹿呼ばわりされて、怪我までして・・・と」

私は選ぶ
 そんなある日、鏡をのぞいて愕然とする。そこには、恨みを呑んだ哀しげな二つの目。森田さんは思わず語りかけていた。
 「おい三郎、今どんな目してる・・・。世間が、住民が、市や県や国が、ああしてくれたらな、こうしてくれたらなと、恨みごと数え立てている、それが今のこの眼だ。たった一人でも、やれることをどこまでもやっていこうとしてきたはずの、お前の目か、これが。 そんなに苦労だ苦労だと思うなら、今すぐ止めてしまえ。止めてもいい、やり続けてもいい。お前はどっち選ぶんだ」
 照れからか、それまで常にこちらの視線を外すように語っていた森田さんが、この時突然、正面から見据えてきた。
 「で、俺は選んだんです、干潟を。干潟を選んだんです。きれいになるかどうか分かんない、遺せるかどうかも分かんない。
 だけど、きれいにしよう、遺していこうと努力することは出来る。その努力、その思いと行動は俺のものだよね。将来どうなるか、その判断、意見、批判は、世間のもんだよね。
 だったら、人の心の中考えることより、自分の行動と思いにエネルギーと時間注ぎ込んで、一つでも余計にゴミ拾おうと思ったね。そしたら涙が出てきてね」
 この瞬間、森田三郎は、不屈の闘士になった。
 「私が 十 拾うでしょ、そしたら、それまで 千 捨ててたトラックが、九百九十九しか捨てなくなる。また十拾うんでよ。九百九十八になる。また十拾うんです。九百九十七になる。また十拾うんです。九百九十六になる。また拾うんですよ、そしたら・・・」
 執念、意地、熱意。森田さんの全身から、そのすべてが地熱のように伝わってくる。だが、同時に、そのどれでもないもっと本能的な何か・・・。
 「ギャンブルでも、酒でも何でも、やりだしたら、止められなくなるでしょ。それと一緒ですよ」
 では、やりたくない日はなかったのか。愚問が喉まで出掛かったその一瞬。
 「ともかく、体、干潟に持ってっちゃえばいい。起きて、飯かき込んで、ガタピシ戸を閉めて、体持ってくんです、干潟に。やる気なんか待ってたら、そんなもの来ない。ともかく始めちゃえば、やってれば、やる気が出てくるんですよ。人間、これがなかったら続けられないよねえ」
 私はすでに取材を忘れ、ひたすら聞き入っていた。 
 「近隣の住民もね、雨の日も、風の日も、雪の日も、自分たちがゴミ捨ててるときにも、松葉杖ついた奴がしょっちゅうゴミ拾ってんだから、百人捨ててたのが、九十九人になり、九十人になり、八十人になって、『やー、これから少し気を付けんべや』と。それまで理屈でやっつけても、ぶん殴られたりしていたのに、少しずつブレーキがかかって、そうやって、だんだんだんだん、拾う私の方が、たちまさって」
 やがて・・・幼いころ素足で踏んだあの砂が、ゴミの下から、まぶしげに姿を現わす。魚たちは群れて夏の光を銀色に跳ね返し、渡り鳥はこぞって飛来した。 そしてゴミ拾いが『谷津干潟クリーン作戦』と呼ばれる運動となって百回を数えようとする一九八四年、習志野市は、ついに干潟の埋め立て計画を撤回。九三年には、ラムサール条約登録湿地として認定を受けるまでになるのである。
 たった一人のゴミ拾いが始まって十八年。森田さんは、勝った。
 「干潟でゴミ拾い、タクシーで客拾い、選挙で票拾い、拾ってばっかりだよ、俺の人生」
 取材の最後に、森田さんはおどけてみせる。だが、その目の奥には、鷹の目よりはるかに強烈な光が、炸裂していた。

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 文/川竹文夫




posted by 川竹文夫 at 11:32| 月刊『いのちの田圃(たんぼ)』

2017年01月14日

2 忘れられた絵師・写楽…写楽登場


写楽登場

 寛政6年(1794)5月。全く無名の浮世絵師東洲斎写楽は、28点の役者絵を引っさげて、いきなり江戸の街に登場した。
 そこに描かれた歌舞伎役者は30人、都座、桐座、河原崎座の控櫓三座揃っての5月狂言で、舞台を飾った役者たちである。30の顔は、すべて思い切ったクローズアップ、しかもそのどれもが、古い鏡面のような鈍い光を放つ背景から、異様なまでに誇張された表情を、見るものにヌッと突きつけてくるのだ。普段見慣れた、きれいごとの役者絵とは違う。この不思議な絵の噂は、口から口へ、江戸市中を飛び交ったに違いない。しかも人々の驚きの中、矢継ぎ早やに刊行された役者絵は、またたくまに140点を超える大量にのぼった。
 東洲斎写楽とは一体どんな素性の絵師なのか。好事家の詮索が及ぶ間もない翌寛政7年2月、その突然の登場に符丁をあわせるかのように、今度はふいに消息を絶つ。この間わずかに10カ月のことであった。
 以来190年。写楽がいつ、どこで生まれ、あの華々しい登場のときまで何をして暮らし、また、誰に絵を学び、そしてふいに消えた後、いつ頃、どこで、どのようにして死んだのか、今もすべてが謎。それどころか、東洲斎写楽という人物が実際に存在していたかどうかということさえ、定かではないのである。
 さて、この辺で写楽の謎の演出者ともいうべき人物を紹介しておかなければならない。
 写楽の全作品に、富士山形に蔦≠フ商標をくっきりと記す男。耕書堂蔦屋重三郎こそ、その人物である。彼は当時、江戸屈指の大手版元であった。
 蔦屋の最初のヒット作は『吉原細見』。吉原の茶屋、妓楼、芸者などを網羅した、今でいうガイドブックであろうか。
 蔦屋はそれまでの横本形式を、手に持ちやすい縦本に変え、大田南畝などの一流文化人に序文を書かせるなど、大胆な工夫を凝らして成功した。やがて蔦屋は当時の出版のメッカ日本橋通油町に進出、一気に大手にのし上がってゆく。
 山東京伝、大田南畝、滝沢馬琴、歌麿、十返舎一九など、時代を代表する鬼才がその蔦屋を舞台に活躍する。その様は、後の歴史家をして、蔦屋が江戸文化を支えていた≠ニまで言わしめるほどであった。
 しかし寛政3年、蔦屋は、悪名高い寛政の改革のあおりを受け、大きな痛手をこうむることになる。蔦屋から出版した『仕懸文庫』を始めとする京伝の3部作が発禁処分を受けたのである。作者京伝は手鎖50日、版元蔦屋は財産半減という厳罰であった。
 折悪しくも、蔦屋のエース、歌麿は他の版元に移り、あろうことかライバルの版元和泉屋市兵衛は、寛政6年正月、気鋭の絵師豊国を起用し、大判役者絵シリーズで『役者舞台之姿絵』を刊行したのである。蔦屋は創業以来最大のピンチに立たされた。
 遅れること半年、寛政6年5月。蔦屋は起死回生の大博打をうつ。無名の絵師、東洲斎写楽をデビューさせたのであった。
 謎の天才は、蔦屋によって、こうして世に放たれたのである。

 現在、写楽は、その版画1枚が3千万円近い破格の高値で取り引きされ、世界三大肖像画家の一人として世界中の賞讃を浴びている。
 無名の絵師の、わずか10カ月間の制作活動が、世界美術史上の一つの頂点を極めるという例が他にあっただろうか。そしてまた、これほどまでに注目を浴びながら、これほどまでに一切が謎の画家がいただろうか。
 比類のない作品の魅力と、未だ解けざる謎。写楽のすべては、私たちを引きつけて止まない。



posted by 川竹文夫 at 16:51| これが写楽だ

2017年01月09日

一徹の人〈第1回〉中川幸夫さん


一徹の人〈第1回〉

たった一人で家元制度に挑んだ生け花の巨人

中川幸夫さん(取材時83歳)
〜『いのちの田圃(たんぼ)』創刊号より〜


さまざまな分野で一筋の道を貫く人たち。崇高にして爽快なその人生の軌跡を、川竹文夫が心からの尊敬を込めてレポートする。 
 第一回は、生け花作家・中川幸夫さん。古田織部賞」を受賞し、ますます息高らかな中川さんは、不敵な笑みを浮かべつつ、この日も東京・中野の光荘で、たった一人、花の宇宙を紡ぎだしていた。

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花の血か
 「いやーもう、叱られてばかりでねえ」
 もてなしの茶菓を運びながら、そうこぼしてみせる中川幸夫さんの顔は、言葉とは裏腹に、満々たる自信をたたえて笑っている。
 三年前、初対面のときと同じだ。再会が嬉しくて、私も同じ憎まれ口が出る。
 「それだけ好き放題にやっていれば、叱られても仕方ないでしょう」
 中川さんが一層愉快そうに笑う。師なく弟子なく、八十三歳の今日まで、強大な家元制度に守られた生け花界に、徒手空拳で、挑んできた。
 その孤高の世界は、生け花というチマチマした概念をとっくに超えている。
 例えば代表作の一つ「花坊主」。深さ八十センチの透明なガラス壷に、九百本の真っ赤なカーネーションを詰め込んで一週間、腐敗に向かう花弁の、異様な姿とふるまいを味わえというのだ。
 詩人滝口修三は、その驚きを、次のように記している。『ガラス壷を白い和紙の上に逆さに置いて待つうちに、静かに滲出する花液が紙上に刻々と軌跡を描きだしたのである。
 花の血か。おそらく花たちは、互いに窒息しつつ体液を滲出するかのように思われた』
 こんなものは、生け花ではない 。花の世界に身を置いてすでに半世紀。中川さんは、そうした怒りと罵声の中で生きてきた。

池坊との決別
 「池坊の恥や!」
 昭和二十六年、第二回日本花道展。当時池坊に所属していた中川さんは、流派の代表審査員から面罵される。ミカン箱に縄を巻きつ
け、白や黄色に彩色した浜匙(はまさじ)を盛り上げた作品が、駄目だというのだ。
 しかし本当の理由は、中川さんが、出品作をあらかじめ彼に見せ、指導と許可を受けていなかったことにあった。そうすることが、しきたりであったからだ。
 だが、中川さんは納得がいかない。
 「自分のもの、自分で活けたいように活けるのは、当たり前でしょう。規則違反やゆうて、お客さんの前で怒鳴られて、黒山の人だかりですよ」
 華道界の各流派が競うこの展覧会では、流派を代表する審査員からにらまれては、入選はまったくおぼつかない。果たせるかな、結果は、予選落ちであった。 数日後、中川さんは、池坊に脱退届けを出す。
 草月流家元・勅使河原蒼風が、中川さんの作品を最も高く評価していたと、人づてに聞かされたことが唯一の救いであった。
 だが翌年、中国四国選抜作家展では、その蒼風にさえ、激しい攻撃を受ける。 
 「私の作品に手を掛けて、こう、ガタガタと揺するんですよ。揺すって壊そうとする。すぐに持って帰れって。こんなのは生け花じゃない、お客さんを迷わせるなって。展覧会の初日にですよ」
 それは、数本の杉の角材を赤と黒に塗り分けて構成した大胆なものであった。 
 「材木なんか生け花じゃないって。お客さんが理解できるように、木の上にツルか草でもかけろって言うんですわ。帽子みたいにね。 なんでそんなこと言うのかと思ったら、蒼風さんは大谷石を五つほど積み上げてね、その上に蔓をストーンとかけてあるんですわ。
 けど、石よりは、木の方がましでしょうが。一応植物なんやしね」
 ところが、その数年後。
 「蒼風さんが、杉の材木を高島屋の玄関に立ててね。アレレッと思いましたよ」 節くれた分厚い手で、頭を撫でながら・・・あんたどう思う? と言わんばかり。私の反応を笑って待つその顔は、さながらヤンチャ坊主だ。
 「先生、それは早すぎたんですよ。蒼風さんより先を行ったらまずいですよ」
 「いやー、そんなんばっかり。みんなに叱られてばかりでねえ、もう」
 鉈彫の仏像にも似た顔がひときわ豪快に笑った。

花を食べる
 昭和三十一年、中川さんは、故郷の四国丸亀から上京する。
 いかなる流派にも属さない、どこからの束縛も受けない。門弟二百万人を抱える池坊に背を向け、一人のまったく独立した作家として、人生のすべてを花に賭けようというのだ。
 たった一人で・・・。いや、出発に先立ち、中川さんはある人に電報を打っている。「トウキョウデ マツ ユキオ」
 受取人は、生涯の伴侶であり、たった一人の同志となる女性、半田唄子さん。九州の由緒ある流派・千家古儀の家元であった。
 しかも彼女は、上京に先立ち、自らの手で流派を解散、家元の座を打ち棄てていたのである。
 命がけ・・・二人の決意に思いを馳せるとき、私には、この月並みな言葉が、にわかに生々しい現実感を持って迫ってくる。
 生け花で生きるということは普通、誰かに教えて、その月謝で食べるということである。
 だが、流派に属さない人間では、それも無理。弟子たちは、流派の「型」を教わりたいからである。流派の看板もなく、いや、家元からうとんじられ、ましてや生け花とも見えない異形の花を活ける中川さんに、人は集まるはずもない。
 しかも、すぐに枯れてしまう生け花は、どんなに素晴らしくとも、売ることができないのである。
 二人の生活は、たちまち貧窮をきわめた。
 「いつもね、逃げるように野菜を持って帰ってね、八百屋から。貸しといてねーって、言い終わらないうちにもう、駆け出してね」
 窮状を見兼ねた知り合いのつてで、キャバレーで花を活け、その報酬で、六畳一間の家賃を払えば、もういくらも残らなかった。
 が、店の都合で、その金さえ予定の日にもらえないことも、しばしば。
 「電車賃がないから、二時間歩いて行ってるんです。それが、『今日は都合が悪いから』って。また歩いて帰るんです。遠い、遠い。往復四時間ですからね」
 バラ、椿・・・空腹の余り、活け終わった花たちを食べたことさえあった。
 「わりと甘いもんだけど、ゆでたりすればもっと良かったかもしれないね」
 六畳間の二人の戦場に、高笑いが弾けた。

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命の叫び
 「あっちは、富山は、山が険しいでしょ、黒部の山はね。その大川に、あっちこっちの支流から、物凄い勢いで流れ込んでくるんですよ。赤、紫、白、黄色のチューリップがねえ、何本もの流れになって入り乱れてドッ、ドッ、ドッ」
 もう二十分あまりにもなるだろうか、中川さんは、もう一つの代表作「闡(ひらく)」が生まれるきっかけとなった情景を語り続けて飽きない。
 「闡」は、深紅のチューリップ数万本の花弁を四角に固まらせ、棕櫚縄で縦横に縛ったもの。
 皮を剥がれたばかりの獣の肉塊が、静かに赤い肉汁をしたたらせている・・・見てはいけないはずのものが、突然目の前に投げ出されているような、そんな生生しさ、痛々しさ。
 「チューリップはね、球根を取るのが目的だから、花はいらない。全部捨ててしまうんですね、川に。それが、支流から大川にどんどん集まってくる。いやー見事ですよ。絨毯みたいに波打って、うねって、極彩色ですもん。何、これーって。凄い」 
 土地の人にとっては、まったく無用のもの。が、中川さんには、捨てられた花たちの叫びが聞こえた。
 「花にすりゃ、捨てられてしまって、もう生きるすべはないわけですよ、行く末はどうにもならない。だけど、それでも生きている。生々しいですよね」
 矢も盾もたまらず、中川さんは、運べるかぎりの花たちを持ち帰り、ミカン箱に詰める。
 「花びらは糖分があるのでビタビタとくっついて固まってくる。ジリ、ジリ、ジリッ、ジリッ、汁を流してね。自分の運命に反発してるんですよ。まだ生きてるんだ、どうにかしてくれって。そのね、狂い咲きのような、最後の命を見届けたいんです、こっちは」
 終始、からっと爽快であった中川さんの顔が、このときばかりは、獰猛であった。
 「花はね、猛々しいものなんです。決められた型なんかに納まらない。その花のね、自分は、ここをこう選ぶんだと、責任持ってね。だから、絶対に流派の問題じゃない。個人の問題。流派は『型』は教えるけど、『血』を教えることはできませんからね」
 中川さんの眼が、すばやく壁をたどる。そこには、ひときわ伸びやかな、半田唄子さんの遺影があった。

                         文/川竹文夫


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「納得の行かないことにはどこまでも抵抗する。好きだからやる。それで今まで生きてきたんですから、まあ、いいとしましょう。こんなことして、よく食べてこれたなあ、ちゅなもんですよ」





posted by 川竹文夫 at 05:41| 月刊『いのちの田圃(たんぼ)』