光を表現するには、影を描く必要があります。微妙な変化に富んだ、濃密な陰影・・・深い暗さがあってこそ、輝く光は出現するのです。
きっと人生も、同じ。孤独に沈潜する時間こそ、温かく喜びに満ちた季節をプレゼントしてくれるのでしょう。自分を励ます思いで書いた一文です。
孤独
2012年7月号(139号)より
ゴウゴウと風鳴り、ザンザンと雨叩きつける朝。窓辺の私は独り、濃霧の奥を見つめ、心の底をまさぐっていた。
こんな嵐の中で、鳴くはずのないウグイスの声が、風にちぎれて飛び去った瞬間、私は不意に気づく。
ウェラー・ザン・ウェル患者学に欠けているものがある。この数年、そう思いながらも、それが何であるのか、どうしても分からずにもがいていた、答えに。
それは、孤独を耕す、ことだった。
いつも、心が最も大切だと唱えていながら、どうして今まで・・・。
孤独には、二つの顔がある。
ガン発病を知ったとき、私たちは人生の崩壊を突き付けられ、一変してしまった風景の真っただ中に、容赦なく放り出されてしまう。
そのとき味わう孤独を私は、〈危機の孤独〉と呼ぶ。
死の恐怖、怒り、悲しみ、喪失感、虚無感、無力感・・・。激しく渦巻く感情に翻弄され、引き裂かれながら、私たちは否応なく、自分の心と向き合わざるを得なくなる。
延々と繰り返してきた日々が不毛であり、信じてきた価値が空虚なものに過ぎなかったと気づかされ・・・すなわち、自分は、知らないまま、生き損じてしまっていたのだと思い知らされるのだ。
何という、激烈な孤独であることか。進むべき道など、どこにも、見えるはずもない。
だがやがて。この危機の孤独の中でもがき抜いたとき、人は深い静けさの中に、一筋の光の道が続いていることに気づく。
〈誕生の孤独〉が訪れたのだ。
命をいつくしんで流れる時間に、日々、身を浸すとき、私たちは、もうすでに、新しい自分が生まれ、光の道を歩き始めていることに気づくだろう。
小さな草や花や鳥たちと、つながっている自分。
誕生の孤独に身を浸すとき、私たちは、初めてすべてに生かされているという平安を得る。平安は生き抜く力を生む。
そのとき、ウェラー・ザン・ウェルの頂は、霧を払って、微笑みかけてくれるのだ。
私たちはみな毎日、孤独の中から何ごとかを成す。そしてまた、孤独の中に帰っていくのだ、新しい日のために。
ああ、明日からのウェラー・ザン・ウェル患者学は、孤独というこの命の源を、ゆっくりと豊かに深く、耕してゆきたい。