2013年03月09日

雨の日もいい天気 9


「利他」なんていうと、なんだか難しい


でも・・・


めちゃうまい大福食べたら


「あんたも、一つどう?」


めちゃおもしろい小説読んだら


「コレ、貸してあげる」


そのちょっと先は、もう利他



posted by 川竹文夫 at 17:00| 雨の日もいい天気

2013年03月07日

第一章 「傷」 その1


爆心地被爆

 私の隣の座席には、一人の初老の紳士が深々と腰を沈めている。もう随分時間がたつというのに、私の連れのその人は、いつもの快活さに似合わず、まだじっと車窓の外に目を転じたままである。彼の名前は大塚宗元さん(63歳)。兵庫県中小企業団体連絡会会長、全国マッチ工業会理事長等、十指に余る肩書を持ち、関西実業界の重鎮の一人として活躍を続けている。神戸市に住む彼は、毎年、新幹線で40回以上も東京との間を往復するという忙しさだ。しかし、今日乗った新幹線は、彼にとって十数年ぶりという広島に向かっている。そこで私たちのTV番組のために、40年以上前の出来事を話そうとしているのである。そのことが、彼の気を重く澱ませているに違いなかった。
 彼は被爆者である。それも特別の被爆者である。被爆という、測り難い不幸の前には、特別も普通もありはしないのだが、それでもなお彼の被爆体験には、そう言わざるを得ないものがある。
 昭和20年8月6日、午前8時15分。広島に人類史上初の原爆が投下された。その時、原爆直下の地点から半径500メートル圏内、最も被害が激烈であったそこには、推定2万1,000人の人々が居た。そして、その2万1,000人のことごとくが死に絶えた……。少なくとも広島の人々には、そう信じられてきた。しかし、事実は奇跡的に助かった幾人かの生存者が居た。その一人が大塚宗元さんなのである。
 原爆炸裂の瞬間、500メートル圏内には7台の市内電車が走っていた。その1台に、軍服に身を固めた大塚さんが乗っていた。
 「それが猛烈に強烈な光でしたから、ピカーッと。それで私はこのまま、ダーッと、こう伏せたんです。床へ伏せた」
 広島に着いた大塚さんは、覚悟が決まったのか、堰を切ったように語り始めた。私たちは、大塚さんに少しでも当時の状況を詳しく思い出していただくため、被爆のときに彼が乗っていた電車と全く同じ型のものを用意し、その中で話をうかがうことにしていた。果して、大塚さんは電車に入るなり、その時、自分の座っていた位置を確認するのももどかしそうに、大きな身ぶり手ぶりをまじえ、実際に床に身を伏せる動作をする程、話に熱中した。
 「ピカーッと光って、ほいで私はパアーッと伏せて、演習で身を伏せる訓練してるから、こう剣をおさえて、パッと身を伏せたそのすぐあと、ボッと言うね、ちょうど油のタンクに、ガソリンのタンクに、一遍に火を点けたらヴォッというでしょ、ああいう音です。そいで熱風が周りからヴォーッときます。物凄い熱風がくるのを感じましたけど私はもう伏せてました。それで、そのあと意識をちょっと失っているんです。気がついたら真暗。それで真暗な中で、死ぬ!と思ったんです。死ぬなあーっと思って、それで、生きよう!と思ったんです」
 当時23歳の大塚さんは、船舶砲兵部隊の教官兼小隊長として広島市宇品(うじな)に駐屯、8月6日のその日から、幹部候補生たちに講義をする予定だった。1週間前、大本営で聞かされたアメリカ軍上陸に備えた最新情報を伝えるためである。
 電車乗り場には行列ができていた。満員電車を1台見送り、次の電車に乗ったが、これもかなり混み合っていた。真夏である。車内は白シャツ、半袖姿の乗客で一杯だった。
 「そうそう、みんなそんなでしたよ」
 インタビューの最中、上着を脱いで半袖になった私を見て、大塚さんはギクリとした様に顔色を変えた。
 電車は広島市の中心部、500メートル圏内に向かって北上。やがて、大塚さんにも馴染みの、白(しら)神社(かみしゃ)の森が見えてきた。彼は横目で、はっきりとそれを確認、その瞬間、原爆は炸裂したのである。
 「私は砲兵隊の兵隊ですからね。砲弾なり爆弾が落ちたらね、ドッと伏せる。まず伏せるっていう癖がついていた。訓練がそうさせたんでしょう。立ってたら、少なくとも窓からパァーッと入ってくる熱風を浴びてたと思う。それからは救われた。
 でね、なんかこう、取り残されたと思って、わしは包囲されていると思って、血路を開くんだと……。パァッと向こうへ行きまして、その、走ってる電車から飛び降りたんです。その瞬間にグウッーっと地面に足が吸いついちまったんですよ。“やられたっ”と思いました。へんな鉄の棒切れみたいなのが入りましてね、この辺に出てるんですよ。実に巧みに腸の間を抜けてるんです。それでフッと向こうの方見ましたら、電車がそのまま走ってたんですが、この車体がこのまま燃え上がりました。ワァーッと。あのビャッコウ、真白い光で全体がヴォーッと燃え上がったんですよ。で、燃え上がったまんま走ったんです。周りは闇ですから、真暗闇の中でこの電車だけ白く燃えて走った。それで、その時どうしたことか、“あっ!地獄の火の車だっ”と、こう思ったんですよ」
 電車は狂ったように数十メートルを走り、止まった。日中だというのに、闇はまだ続いていた。
「暗くて何も見えんのだから、じいっと立ってました。そしたら周りの地面の下の方から、だんだんね、煤を一面に散りばめたようなものが、下からこう上がってくるんです。下からだんだん見えてくる。見えてきたら、もうグシャグシャなんですから。周りが今までの周りじゃないですから。白い馬がプウーと膨れあがって横になっていましたよ。それで、今まであった土地が、街がないんです。街があって建物があったでしょう。それが無いんです……」
 広島は一瞬にして壊滅していた。それは、大塚さんの、そして全被爆者の、原爆との長い闘いの、始まりを告げる光景であった。
 「いやだねえ、思い出したくないよ……。私なんか語る資格はないですよ……」
 それまで、冒険物語でも話す様に熱を込め、自在に語っていた大塚さんは、突然そう言うと、フッと黙りこくってしまった。その顔には、広島への車中ずっと続けていたのと同じ表情が浮かんでいる。大塚さんはまた、あの事を思い出しているらしかった。



posted by 川竹文夫 at 17:00| ヒロシマ爆心地

目次


目次

第1章 傷
  爆心地被爆 沈黙
第2章 爆心地
 〜死の500メートル圏内〜
  原爆投下 昭和20年、広島  広島市消滅  死の同心円
  熱線地獄――1.2キロメートル圏内へ  爆風の衝撃――730メートル圏内へ  
死の放射線――500メートル圏内へ
第3章 生存者発見
  湯崎資料  爆心地復元運動  解明への手がかり  調査票は語る
  死屍累々  化石  遺体確認  SD――ショートディスタンス
第4章 語りはじめた人たち
  沈黙の40年  被爆体験はフィクション?  ピカもドンもない
  竹田さんの40年  波瀾万丈でない人
第5章 空白地帯
  路上被爆  ファイヤーボール直下  地獄からの生還  闇の爆心地
  黒い雨  徳清さんの戦後  体内に残るガラス片  被災者の群れ
  火事嵐  極限下の人々
第6章 僥倖
  私は何故助かったのか  生存者たちはここに居た  地下室
  普段と違う行動  コンクリートの建物の中でも……  僥倖
第7章 生と死のコントラスト
  検証――日本銀行  くいちがう証言  配置図復元  物理学者庄野直美教授
  熱線、爆風、放射線  再現――日銀ビル3階  40年前  熱線照射
  ガンマ線照射  奇跡を科学する
第8章 突然の死
  即日死90パーセント  急性障害  無力だった医療  ドクダミ茶
  ナスの塩もみ  一升瓶のお茶  自家輸血
第9章 影
  癌への恐怖  鎮痛剤  不安の日々  白血球  豪語
第10章 新たな悲劇
  57人目の生存者  続く悲劇  髪  女学生たちの戦後  乳癌
第11章 死者たちの証言
  8月6日、広島電信局  『電信日誌』の14人  表彰状  2つのカツラ
  16歳で被爆、42歳で死亡  死んだ日、生まれかわった日
第12章  被爆の刻印
  後障害との闘い  400本の細胞カプセル  染色体異常の示すもの
  染色体異常率と被爆線量  染色体異常と発癌  発癌2段階説
  近距離被爆者の骨髄細胞  癌遺伝子をつかまえる  染色体異常の遺伝的影響
第13章 癒されぬもの
  一輪の花  家族への思い  一家離散  ある離婚  心のケロイド
  見捨てられた人々  鎮魂
終章

参考文献

付章
  日銀広島支店の被爆者〜奇跡の生還の科学的分析〈庄野直美〉
  広島原爆のエネルギー  日銀広島支店の被爆位置  被害の時間的経過
  爆風による被害  中性子による被害  熱線による被害 ガンマ線による被害
  まとめ
  参考文献

  近距離被爆者と染色体異常〜現在も残る原爆の爪痕〈鎌田七男〉

   原爆後障害の現況
  原子爆弾の身体的後障害  放射線と白血病発症率  
被爆者白血病の発生、3つの特徴  組織別危険度  現在何が一番問題か

   染色体異常の意味
  染色体異常は直接的証拠  染色体異常の刻印  放射線被曝の程度と染色体異常率
  被爆による染色体異常と他の要因による異常  染色体異常は全組織で起こっている

   染色体異常と癌との関連
  被爆者の染色体異常  癌細胞と染色体異常  染色体異常分布の不均一性
  染色体異常と癌化の関連
  参考文献

あとがき〈NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム・川竹文夫〉



posted by 川竹文夫 at 16:51| ヒロシマ爆心地

雨の日もいい天気 8


「生かされている」と、誰もが言う


永遠の流行語みたいに


へそ曲がりの僕は、あえて言いたい


俺は頑張って「生きてきた」と


神様、呆れて苦笑いするかな



posted by 川竹文夫 at 16:44| 雨の日もいい天気

2013年03月03日

学会誌より その2


無意識のうちに乗った〈旧パラダイム〉の船

 このように、パラダイムとは、どれを採用するかによって、ことごとく大きく異なったプロセスと結末がもたらされる。それほど、影響力のあるものなのだ。
 そして人は必ず、ガン闘病に限らず、常に何らかのパラダイムを採用して生きていかねばならない。ちょうど、人生という広大な海をどれかの船に乗って航海するように・・・。
 ところが困ったことに、パラダイムという船の選択はほとんどの場合、最初は無意識になされる。だから、本人には選んだつもりなど無くとも気づいたときには、もうすでにいずれかの船に乗ってしまっているのだ。
 いずれかの船・・・と今私は書いた。だが実際には少数の異端者を除き、圧倒的大多数が、その時代を支配している船に乗らされているのだ。〈旧パラダイム〉という名の船に。
 そして18年前の私がそうであったように、〈旧〉の理論的枠組みに縛られた結論を、やすやすと下してしまう。
 「三大療法しか自分の命を救う方法はない」あるいは「もう助からない。後は延命を図るのみ」とさえ。
 その結果・・・戦後60数年、一度たりともガン死者が減少した年は無く、今では年間33万人もの尊い命がガンによって奪われている。
 しかも、船瀬俊介氏が指摘するように、33万人のうち8割もが、実は、抗ガン剤をはじめとする治療の副作用で亡くなっているというのだから・・・パラダイムの選択を間違った結果は、かくも悲惨。
 幸いなことに私は、比較的早く旧い船を捨て、新しい船に乗り換えることに成功(とはいえ右腎臓を失ってしまったのは実に悔しい)。以来、ウェラー・ザン・ウェルの人生を謳歌している。
 そして、そんな私の使命は、かつての私によく似た後輩たちの、パラダイム乗り換えを手伝い促すこと。
 さらには近い将来、〈旧〉から〈新〉へと、乗客(患者や家族)はもちろん、乗組員から船長(医師たちとそのトップ)に至るまで根こそぎ乗り移る日を到来させること。つまり、パラダイムシフトを実現することだ。
 ウェラー・ザン・ウェル学会の主たる存在理由のひとつも、そこにある。
(つづく)